2007.10.14

パイロット活動(位田和美)

(前回のコラム「青少年センターにおける現行啓発活動調査」)

任期中の最後の1ヶ月間、腰を据えて1箇所で活動できたことは、非常に実りの多いものであった。というのも、約1ヶ月間の調査中は、各青少年センターにつき3-4日間の日程で、スタッフとの成果分析(不賛成意見多数につき、折り合いに時間がかかる)、地域のキーパーソンへの聞き取り(まず日程調整が至難の業であり、現場へ行かないとアポは取れず、アポは取れても守られるとは限らない)、青少年へのインタビュー(学年末であったがためにアクセスが困難であり、さらに、本音を聞きだすのに時間がかかる)、啓発活動の見学、と盛りだくさんであった。そして、盛りだくさんであるがために、自らのエネルギーを使い切ったにも関わらず、一過性の活動に陥る可能性が否めなかった。実際、調査を終え、配属先である青年省へ中間報告をした際には、先方の賛辞とは裏腹に、人事問題や保健システム不備という根本問題を目にし、私には焦燥感、無力感だけが積もった。

そんな精神状態で臨んだパイロット活動であったが、スタッフとの関係が深まるにつけ、さまざまな内外の課題を抱えつつも、自らの哲学をもってできることから地に足をつけて取り組んでいる、青少年センタースタッフの姿に感銘を受けた。例えば、青少年センターに検査技師を雇用するのが困難であるのならば、出張検査を実施し(日当を出すことができる)、何とかセンターと検査技師とのつながりを保ったり、パートナー援助機関からの資金配当が遅延しているのならば、保健センターが実施するルレ(コミュニティヘルスワーカー)の研修場所を提供することにより、効率よく保健センターやルレとの連携を保っていたり、ITが苦手であれば、隣の青少年局でボランティアをしている人に頼んで手伝ってもらい、月間報告書の義務は(意外にも)きっちりと達成しようとしていたり、等々。これら最低限のセンターの機能を守る努力を見、質の改善は大きな課題ではあるが、なぜ目標に掲げている固定検査数が伸びないのか、ピュアエデュケーターやルレが思うように機能していないのか、を理解することはできた。

そこで、実際の活動としては、フィージビリティに配慮し、①センター長が活かしきれていない人脈を駆使し、また、センターの最大の課題である広報活動を克服すべく、ロビー活動の強化、②ロビー活動をする上で補助となる、広報ツールの作成、③さらなるお金をかけなくても啓発活動ができるよう、IEC技師の部屋に埋もれている「使える」啓発教材の整理・活用、④今までセンター長の感覚で実施してきた活動を客観視すべく、四半期毎の目標設定・掲示、の4つを活動として行った。

この1ヶ月間の活動の最大の成果は、上記①のロビー活動であろう。センター長は、一番はじめに訪れたロビー活動先である市役所にして、青少年センターがその存在以外に、機能や役割等まったく理解されていなかったことを初めて知ったのである(知名度が低いとの調査結果にも、最後まで反対していた)。これまで、何となく日々の付き合いから知られているだろうと踏んでいた青少年センターが知られていなかったという事実に対して、センター長はすぐさま認識を改め、その後、教育委員会、宗教指導者、州議会、軍医務局とロビー活動を重ねていくにつれて、説明型から提案型へ変わっていき、また、各機関が抱える課題をセンター長と共有してくれるようになり、センター長も地域問題のコーディネーターとしての役割をも認識するようになった。

結果として、宗教指導者からの提案により、「イスラムとリプロダクティブヘルス」と題したコンファレンス開催という運びとなった。(2007年10月7日現在、まだ開催はされていません)これは、特定地域での教育現場におけるリプロ教育反対という保守派への対応に困っていた教育委員会のニーズにも応えるテーマであり、また、今まで単独で活動してきた各機関にとっても、連携強化のチャンスである。当コンファレンスが開催されれば、より一層の相乗効果が期待でき、今回介入した青少年センターの活性化にもつながると踏んでいる。

こうして、前半こそ課題の多さ、重さに無力感を感じたものの、何とか改善の糸筋を見出すことができた。もちろん、これで課題がすべて解決した訳ではないし、スタッフの活動継続性はモニタリングしていかなければならない。けれど、今回垣間見させてもらった、現場の人々の背伸びしない、でも希望を失わず、細々と続けるという姿勢が、私自身を現場で働くよう惹きつける最も大きな要因であることを再認識した滞在であった。

以上

(バックナンバー)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.09.14

青少年センターにおける現行啓発活動調査(位田和美)

前回のコラム(2度目のセネガル)

前回紹介したHIVエイズ対策VCT(Voluntary Counseling and Testing)統合サービスプロジェクトでは、全国13箇所ある青少年センター中、8箇所を選定し、支援を行っている。私の派遣は、3ヶ月間という短い期間であるため、同時に派遣された短期隊員と2人で手分けして現行啓発活動調査を実施することとなった。結果、私が担当したのは、セネガル東部2州にわたる計4箇所の青少年センターである。

そもそも、青少年センターには、青年省が雇用するコーディネーター、IEC(Information, Education and Communication)技師、それから、某国際機関が雇用支援していたソーシャルアシスタントおよび検査技師が配置されているはずである。私の活動対象である啓発活動は、上記IEC技師を中心に、ピュアエデュケーター、地域啓発員(ルレ)によって実施されていることになっている。しかしながら、2007年1月から調査開始時の2007年6月にいたるまで、ほとんどの青少年センターでは某国際機関との雇用契約の切れたソーシャルアシスタントと検査技師が不在という状況であった。さらに、援助機関がプロジェクトのフェーズ終了に従って手を引いて行く中、開構以来外部依存の強かった青少年センターに資金源が少なくなった現在、青少年センターが報酬を渡して啓発活動を委託していたピュアエデュケーターやルレのセンター離れが強くなっている。このように、調査開始以前から、人材確保という青年省レベルでの組織上の問題に直面していた。しかしながら、現行活動調査自体は、手探りながらも大学院で勉強したフォーマティブリサーチ手法を適用し、各青少年センターにてSWOT分析、質的・量的調査を実施することができた。

上記4箇所の青少年センターを比較した結果、見えてきたのは、まず、当然のことながら、青少年センターとしての人材配置がきちんとされており、それぞれがそれぞれの職務を、プロフェッショナリズムを持って果たしているセンターほど、センターの知名度も高く、VCT受診数、カウンセリング受診数も多く、センターとして機能しているということであった。次に、地域のオピニオンリーダーや医療機関や教育機関等の主要機関との連携が強ければ強いほど、青少年センターの青少年の行動への影響も大きいことがわかった。さらに、啓発活動数や青少年センターの知名度とVCT受診数は必ずしも比例せず、やはり啓発活動の質とコミュニケーション手段の吟味が必須であることが再確認された。

以上から、青少年のVCT受診を含む行動変容には、青少年個人レベルでの啓発、および青少年を取り巻くコミュニケーションを網羅したソーシャルネットワークからの啓発の強化、ならびにオピニオンリーダーをはじめ、地域社会の連帯意識としてのHIVエイズ対策が必要であると言えよう。そこで、青少年センター4箇所の現行啓発活動の各レベルに応じて活動強化のための提案をした。

結果、後半1ヶ月間に介入すべく選定したのは、地域の青少年間での青少年センターの知名度が低く、IEC技師は配置されているけれども、事務所仕事をこなすだけで対外活動に消極的であり、ピュアエデュケーターやルレも機能しておらず、コーディネーターが地域の情報と人脈を豊富に有しているにも関わらず活用していない、つまり、地域のオピニオンリーダーとの連携が希薄な青少年センターである。次回コラムでは、啓発活動能力強化の準備としての青少年センターの広報活動、組織マネジメント強化を中心とした、1ヶ月間のパイロット活動について記したいと思う。

バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.08.31

2度目のセネガル(位田和美)

前回までのコラムでは、青年海外協力隊 村落開発普及員として2年2ヶ月間過ごしたセネガル村落部での活動について書かせていただいた。その後、1年間ワシントンDCの大学院でPublic Healthを勉強した後、2007年5月末に再びセネガルへ降り立った。今回は、3ヶ月間という短期間ではあるが、某援助機関がセネガル青年省および他援助機関と合同で実施している、HIVエイズ対策VCT(Voluntary Counseling and Testing)統合サービスプロジェクトが対象とする、青少年センターにおける啓発活動の強化という名目で派遣された。

上記プロジェクトは、15歳から24歳までの青少年をターゲットと設定し、危険な性行動を取りがちであると言われる青少年におけるVCTサービス受診数を上げ、HIVの低感染率を維持することを目的としている(1)。 本プロジェクトが始まる2005年2月以前には、某国際機関が青少年センターにおけるリプロダクティブヘルスに関するカウンセリングサービス実施支援をしており、本プロジェクトは既存のカウンセリングサービスにVCTという新サービスを統合し、より包括的に青少年の健康を維持向上しようとしている。また、本プロジェクトの醍醐味は、通常VCTというと医療機関で実施し、対象層を動員するのに対し、対象村である青少年の集まる青少年センターにVCTサービスを設置しているところにある(2)。 これにより、性感染症や婚前妊娠というセンシティブな問題を抱え、医療機関で人目につくことを恐れる青少年や、医療機関に支払うお金がない青少年、また、健康であるがためにわざわざ医療機関へ行く必要はないが、感染予防が必要な青少年をカバーすることができている。実際、2007年1月時点で、全国104箇所あるVCTセンター中、上記プロジェクトが対象としている青少年センター8箇所のみで18%のVCT実施という成果を挙げている。

今回のコラムでは、次回以降2度に分けて、①前半2ヶ月間の青少年センターにおける現行啓発活動の調査結果、②後半1ヶ月間の選定した青少年センターでの啓発活動強化パイロット活動について記したい。

-----------------------
(1)セネガルにおける一般人口のHIV感染率は、サブサハラアフリカ諸国でも低く、0.7%である。ちなみに、一般人口のHIV感染率が1%を超えると、「流行期」に入り、全国に蔓延しやすいと言われている。

(2)青少年センターの有するVCTサービスには、青少年センターでVCTを行う固定検査と、学校へ居住地まで赴く出張検査の2種類がある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.08.28

青年海外協力隊の役割(位田和美)

(前回のコラム「人々の中のNGO」)

今回は、数あるフィールド・ポストの中でも、まさに「草の根レベルで」「住民と共に」活動する青年海外協力隊の役割を個人的観点から記したい。

前回のコラムでは、NGOが住民の生活に必要な公共サービスをも提供していることを記した。そして、それらのサービスは成果を挙げている場合が多く、私の赴任地に限って述べると、地方政府からの信頼も非常に厚い。

私は、赴任当初からNGOをはじめとする援助団体の活動地域・分野を把握することに努力を払ってきた。というのも、青年海外協力隊の常として、地方政府に配属はされているものの、具体的なTORも活動制約もなく、地方政府のリソースを活用しつつ、独自の活動を展開することが可能であるからである。つまり、自身の役割を認識した上で、赴任地における地方開発支援活動の住み分けによる相乗効果を図ろうとしたのである。

結論から言うと、地方開発における協力隊の役割は主に2つあると思う。

第一には、住民との対話や自身による観察を通して、村の現状(例えば、住民の課題は何か、現在行われている各種プロジェクトのその後がどうなっているか)を情報整理し、関係機関に伝えること。

青年海外協力隊の活動は、非常に限られた地域に限定されることが多い。しかしながら、それを逆手に取り、当該地域の情報を包括的かつ詳細に集めることが可能である。NGOはその規模が大きければ大きいほど、プロジェクト開始後の個別フォローアップが甘いことがある。当然、プロジェクトの中間評価や最終評価は行われているのであるが、それら評価システムから漏れるものも多いのである。そこで、軌道修正可能な時点で活動提案も含めた現状報告をするのが有効である。小回りが効き、ある程度客観的な視点を持った協力隊の情報提供は実際、重宝されることが多かった。

もうひとつの役割は、新しい付加価値を生み出すことである。協力隊は、言わば異文化から来ているため、地域に根付いている人々の気づかないポイントを発見することができることもあるであろう。

例えば、私の任期中、関係機関に最も評価されたもののひとつに、「掲示版」の定着が挙げられる。掲示版は日本では身近な広報ツールであるが、セネガルではあまり一般的ではない。しかしながら、その効果は絶大であることは村の各種行事の中で証明された。自身の今までの経験と村の情報を有機的に結びつけ、さまざまな提案をしていくと、互いの情報交換も進み、理解も深まったと感じている。

2年2ヶ月のセネガルでの活動を終了した今、協力隊というのは、本当に住民の生活に密着した活動を展開できる事業である、とより一層感じている。物理的には、非常にミクロな視点に限られてはいるものの、一定地域全体の課題を鳥瞰することができ、また、その原因を住民の生活観を持って感じ取ることができるのである。住民と心を通い合わせることができるという意味において最もダイナミックで面白い職業ではないか、とひそかに自負している。

(バックナンバー)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.05.22

人々の中のNGO(位田和美)

(前回のコラム「行動変容へのあくなき挑戦」)

今回は、本コラムのタイトルでもある「NGO」の存在をめぐり、村落部の人々を取り巻く社会環境を概観してみたい。しかし、「村落部の人々」と一概に括ることはできないため、ここで述べることは私の活動村という一例であり、私の所感に過ぎないことを冒頭に言及しておきたい。

まず、私自身が活動を行う村(活動村)を選ぶ際に、学校やヘルスクリニックなどの公共機関やNGOが活動している土地を選んだせいもあろうが、当地では村落部の人々の生活の中にNGO支援が深く根付いているという印象を受ける。例えば、人が生まれ、体重測定をする際にはNGOが体重計や軽体重児への栄養補給食を支給し、村の地域保健普及員による体重測定の監督を行っている。疾病予防のための啓発活動にかかる教材供与もしかりである。子供が学校へ行くようになると、NGOから学校に対し学用品や給食時に使用する食器、食器洗いのための洗剤、大きなものになると学校建設(クラス、塀)の支援を受ける。また、視聴覚教育充実のためにソーラーパネル、ビデオ機材を供与されている学校さえも存在する。他方、大人、特に女性を対象にした識字教室の開催・運営もNGOが支援しており、生活技術指導とともに成果をあげている。他には、村人の生活基盤である給水塔、中規模換金作物作りのための種子や畑の柵といった材料も供与され、その維持管理の監督もNGOが務めている。さらには、村の一大関心事、つまり、人々が自ら資金を提供しようとする動機づけが高いとされている宗教行事を開いたりするときでさえ、NGOから資金援助を受けている場合もある。

このように、人々は複数NGOの支援を受けているため、フォーカルポイントとなっている村の代表者はそれこそ息つく暇もないほど対応に追われている。逆に、フォーカルポイントがしっかり業務管理していればいるほど、NGOにとっても支援しやすい村と判断され、さらなる支援を見込むことができるようである。

そのNGO活動であるが、私は実態を目にする前は人々が支援要請をあげ、NGOがそれに応える要請主義形式が主体かと思っていたのであるが、実際には要請主義を掲げながら、NGOが積んできた経験を基にプロジェクト導入の雛型のようなものがあり、NGOからの提案方式でコトが進められていることが多いように感じる。
しかしながら、NGO支援開始にはさまざまな経緯が存在する。

例えば、セネガル政府が国家プロジェクトとして始めたものの経過観察および深化を目的とした引継ぎ形式がある。特定のNGOが引き継いだ政府プロジェクトのさらなる引継ぎもある。当地では乳幼児死亡率低下のための栄養プロジェクトがこれに該当する。

また、本来であれば公共機関(私の赴任地では医療機関であることが多い)の業務であるのであるが、資材・人材不足から人々や、公共機関までもがNGOに支援要請し、実施するという形式もある。全国一斉ワクチン接種や学校行事開催がこれに該当する。

いずれにしろ、NGOは公共サービスの代替であるという印象を強く受けることが多い。

上記に見るように、当地では人々の生活の中にはNGO支援が根付いていると言っても過言ではないだろう。人々にとってはNGOが地方公共団体より身近な存在であったりする。

私は赴任当初、上記の状態を「援助づけ」「住民の意向を無視した、上からの押し付け形式」と一括りに見る傾向があった。しかしながら、2年近く観察していると、日々食べていくことに加え、簡易診療所から学校運営に至るまでコミュニティが負荷を負っている現状を鑑みると、NGO支援がどのような形であれ(仮に住民が受け身であったとしても)、実際に人々にとって必要であり、役に立っていることが確かな場合が多い。むしろ、私見ではその支援期間に有限性のあるNGO支援終了「後」の村落開発こそが課題であり、支援終了後を見据えた活動計画が欠如しているとの問題意識を抱いている。

その中で協力隊員としてどのような役割を見出すのか。次回のコラムでは、草の根レベルで活動する青年海外協力隊の役割とその醍醐味を記したい。

バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.02.20

続・マラウイ徒然3  食糧危機の中、メイズの販売禁止令が出された(小林由季)

(前回のコラム「続・マラウイ徒然2  食糧危機ふたたび+洪水」)

前回書いたように、マラウイは食糧危機の真っ只中にある。そして、本当に必要としている人の手にメイズ(トウモロコシ)が行き渡るよう、いろいろな策が講じられている。

そんな中、1月4日付でマラウイ北部の主要都市であるムズズ市でメイズの販売禁止、という新聞記事が掲載された。ムズズ市議会は、同市内でのメイズ販売をADMARC(The Agricultural Development and Marketing Corporation:全国に拠点を持つ農協のような公社)だけに限定し、それ以外の民間業者のメイズ販売を一切禁止するというのである。第一報の記事では「メイズを高値で売る不届きな民間業者のメイズ売買を止めさせる」ことが目的と書かれている。

マラウイでは農産品販売が自由化されているが、政府はADMARCを通して、市場価格(房つきキロ40クワチャ前後)ではメイズを買えない人たちのために、補助金で低価格(房つきキロ17マラウイ・クワチャ)に抑えたメイズを販売している。

食糧不足の現在、メイズは一人当たり一度に25キロまで購入可能、と割当が決まっているが、入荷量に対して購入希望者が多すぎるため、入荷があった時に並んでいる人の数を見ながら、割当てを5キロ~15キロに減らし、なるべく多くの人に低価格の補助金メイズが行き渡るようにしている。それでもすぐに在庫が底をつき、何日も次の入荷がないことがある。

このメイズ販売禁止令について、以下、関連新聞記事から抜粋してみた。

ムズズ市議会の行政の長Chief Executiveによれば、
「市内のメイズ不足について、ステークホルダーと話し合った結果」
「民間のメイズ取引業者は、低価格の補助金メイズをADMARCから不当な手段で大量に購入し、それを(市場価格の高値で)転売したり、中部や南部に輸送して販売しているという告発があったため」
「一部の個人の利益ではなく、すべてのムズズ市民の利益のために」
今回の決定が下されたとのこと。

本件についてADMARC北部マネジャーは次のようにコメントして、今回の決定を歓迎するとしている。
「クリスマス直前の一週間で、ムズズ市内のADMARC販売所全体で500トン以上のメイズを売り切ってしまった。我々はまるでメイズを(底なしの)穴に注ぎ込んでいるようだ。」
「ムズズ市内のADMARCでは通常は一週間に100~150トンしか販売しない。誰かがADMARCからメイズを大量に買っているというコミュニティからの申し立てもあって、(民間取引業者が)転売しているという疑惑につながった。」

それに対して、民間のメイズ業者は次のように反発し、商売を続けるとしている。
ムズズ・マーケットでメイズを販売している露天商:
「俺たち全員がADMARCからメイズを仕入れているという証拠でもあるのか。疑いだけで全員の商売を禁じるなんて。」
「ADMARCから買っている人間だけを捕まえればすむことじゃないか。」
「我々はタンザニアやChitipa県からメイズを買いつけてるんだ。」
「私たちはメイズで生計を立てている貧しい人間なんだ。」
「市や政府はこの商売を止めろというけど、夫に先立たれて5人の子どもの面倒を見なきゃいけない私はどうすればいいの。」
北部露天商協会会長:
「メイズ販売禁止の決定が下された話し合いに自分たちの代表はよばれていない。一方的に下された決定に従うことはできない。」
「マイクロファイナンス機関のFincaやPrideから金を借りてこの商売をしている人間もいるんだ。ある日突然商売をやめろというのはフェアじゃない。」
「我々は全員逮捕されてもいいと思っている。」

話し合いに参加した「ステークホルダー」は、Traditional Authorities (伝統的権威・リーダー)、政治家、ムズズ市議会当局、中央政府のスタッフで、確かにメイズ販売業者がいない場での決定だったらしい。

農業・食糧安全保障省の大臣はこのメイズ販売禁止令に反対として、
「本件について省は相談consultationを受けていない。」
「この食糧の足りない時に、ADMARCだけで市全体のメイズを供給するのは無理がある。民間業者がメイズを市場に供給する機会を与えるべきだ。」
とコメントしている。

マラウイ消費者協会(Consumers Association of Malawi: CAMA)のディレクター代理も、本件はメイズの販売を統制し、需要を抑制することが目的なのだろうとしながらも、これは経済の自由化に逆行するもので、消費者がメイズにアクセスするのを妨げる側面があると強調している。

また、マラウイ商工会議所(Malawi Cofederation of Chambers of Commerce and Industry:MCCCI)の会頭は、本件についての声明の中で次のように述べている。
「現在のシナリオは、メイズを輸入したり、自ら生産している民間業者が、市場価格が上昇したのを見て、貯蔵していたメイズを放出しても十分な利益があがると判断したということだろう。」
「(それなのに)ADMARC以外でのメイズ販売を禁止するのは、短期的に見てもなんの解決にもならない。(このような禁止令は)メイズ生産を続けようという民間セクターの企業家精神をそぐことになる。」

1月7日以降、これを書いている1月21日まで、本件についての続報を目にしていない。次回はこのメイズ販売禁止令と、経済自由化、地方分権化の関連について考えてみたい。

関連新聞記事
The Nation紙
1月4日付Mzuzu City bans sale of maize, http://www.nationmalawi.com/articles.asp?articleID=14453
The Daily Times紙
1月4日付Mzuzu residents ban maize traders, maize traders banned in Mzuzu, websiteなし
1月6日付 Vendors defy maize ban, websiteなし
The Weekend Nation紙
1月7-8日付 Mussa against maize sale ban, websiteなし

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.01.30

続・マラウイ徒然2  食糧危機ふたたび+洪水(小林由季)

(前回のコラム「続・マラウイ徒然1 元旦にマラウイ政治の歴史をふりかえる」)

再び、マラウイが食糧危機に瀕している。洪水やかんばつ、農業投入物不足のため、昨シーズン(2004/05年)の出来が悪かったのだ。主食であるメイズ(トウモロコシ)房つきの値段はどんどん高騰して、昨年4月に雨季が終わった時点で、キロ20マラウイ・クワチャ(1マラウイ・クワチャは約1円)だったのに、今はキロ40マラウイ・クワチャはする。人口約1200万人の内、食糧援助が必要な人の数は、05年5月には200万人、6月には420万人とされ、長らくこの数字が使われていたが、12月頃から上方修正されて、今年に入ってからの新聞記事では500万人とも言われている。

以前、2001/02年シーズンの不作が引き起こした食糧危機について書いたが、その時は私の住んでいるブランタイヤ(マラウイ一番の都市)のスーパーの棚からウファ(メイズの粉)が消えてしまった。今回は値段は高騰しているものの、スーパーではメイズ粉が、地元の市場では房つきメイズがちゃんと売られている。ただ、キロ40マラウイ・クワチャはとても庶民が手を出せる値段ではない。

政府はメイズの不足分に対して
(1) 政府が買い付けて、全国に拠点を持つ農協のような公社The Agricultural Development and Marketing Corporation :ADMARCを通じて補助金で低価格に抑えて(房つきキロ17マラウイ・クワチャで)販売する
(2) WFPを通じて緊急援助で無料で配給する
という主に2つの方法で対応しており、この両者にドナーの援助が入っている。この他、ムタリカ大統領が民間セクターからの寄付を募って食糧の無料配布を実施する財団:Feed the Nation Fundを立上げたし、国内外の財団、宗教団体、NGOが食糧支援を行っている。しかし、上記のように食糧援助が必要な人の数がどんどん上昇する中で、援助は足りていないとも言われている。

新聞やテレビの報道だけではよくわからない食糧援助だが、今回は05年12月5日にWFPの食糧配給サイトを訪問する機会を得ることができた。食糧配給の背景、実施方法、問題点など詳細レポートについては写真入りで次のサイトに掲載していただいたので、是非ご覧いただきたい。

日本マラウイ協会 マラウイ食糧支援募金 2005
http://www.h4.dion.ne.jp/~malawi/index.htmlページ下の「2005 緊急レポート:マラウイ食糧事情とWFP配給現場」をクリックして下さい。
*こちらにはWFPへの募金の案内も掲載されています。

TICAD市民社会フォーラム(TCSF) アラート通信3号
http://www.ticad-csf.net/alert03.pdf

こうした食糧危機の中、この雨季は雨がしっかり降ってメイズの育ちがいいな、と近所の畑を見回していたところへ、「洪水で8000世帯が家を失う」という新聞記事(リンクは下記参照)が出た。最南端のNsanje県とその隣のChikwawa県でクリスマス・イブに洪水、鉄砲水が発生し、Chikwawa県で8,000世帯、Nsanje県で4,500世帯の家、家畜、畑の作物が流され、木に登って避難する人たちも出たという。その他、洪水による被害はLilongwe、Zomba、Thyolo、Balakaの各県で確認されているようだ。政府はNsanjeとChikwawaの2県について、メイズ粉、豆類、シェルター用のプラスチックシート、バケツなどの配布を手配中とのことだが、現地で緊急援助に従事するNGOによれば、「毛布や衣類の支援がもっと必要だ」とのこと。これらの支援も、2県に通じる道が雨季に入ってから一部不通になっており、また洪水で通れなくなっているので、困難を極めることが予想されている。

洪水の関連記事は次の通り:
1月5日付 IRIN News  MALAWI: Number of affected people rising as rain continues http://www.irinnews.org/report.asp?ReportID=50957&SelectRegion=Southern_Africa&SelectCountry=MALAWI
1月5日付 The Nation  Government releases K10m for flood victims
http://www.nationmalawi.com/articles.asp?articleID=14472

バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2006.01.09

続・マラウイ徒然1  元旦にマラウイ政治の歴史をふりかえる(小林由季)

2006年 明けましておめでとうございます。

新年にちなんで、しばらくお休みしていた「マラウイ徒然」に「続」をつけて、再開してみようかという気持ちになった。

私は昨年に引き続き、マラウイのブランタイヤで年を越したが、雨季の中、元旦は曇空で明け、一日中雨が降っては止みしており、青空はついに見ることがなかった。

元旦の朝、起きてテレビを点けると、TV Malawiでは「マラウイの歴史」として、マラウイの初代大統領カムズ・バンダ博士の演説が放映されていた。マラウイは64年にイギリスより独立したが、その直後に大統領になったカムズ博士は「マラウイの人間は一生懸命に働かなければならない。我々には(ザンビアにある)銅鉱も(南アフリカにある)金鉱もないが、土地がある。この土地が経済の源となる。マラウイが発展していくためには、Loyalty (国への忠誠)を中心にしたUnity (異なるエスニック・グループを超えた団結)が必要だ。しかしこれだけでは十分ではない。更に、Discipline(規律)とObedience (従順)も大事である。」と演説していた。「これがカムズ大統領のMalawi's Four Cornerstones(四つの礎)だよ。」と横で夫が説明してくれる。(*カッコ内は小林による注。)

強力なリーダーシップで国民を引っ張ったカムズ大統領は、周囲の国が共産主義化し、南アフリカのアパルトヘイトに反対する中、資本主義を貫き、南アフリカを支持することを宣言し、南アフリカからの支援を引き出し、台湾と国交を結んだ。彼によれば、それが南部アフリカの内陸国、資源のないマラウイの生き残る道であった。自らを終身大統領と規定したバンダ大統領であるが、言論の自由を統制してMalawi Congress Party(MCP)による一党制支配を保持し、大勢の人が秘密警察に逮捕され、政治難民として国外に逃れる人も出て、独裁政権と批判されました。それでも、「あの時は物言えば唇寒しだったけれど、飢えることだけはなかった。」と、近年ではその経済運営手腕が懐かしがられてもいる。

しかしデモクラシーへの流れの中、終身大統領制は終焉を見ることになる。93年にレファレンダムによる多党制への移行が行われた後、94年の総選挙ではカムズ博士が率いていたMalawi Congress Party(MCP)は多数議席を取ることができず、United Democratic Front (UDF)が与党となり、その党首であるバキリ・ムルジ博士が大統領になった。その後2004年までの10年間、UDFは与党であり続けましたが、カムズ時代からの揺れ戻しだろうか、国はデモクラシーへの移行、人権の確立の面では進歩したが、規律や統制を失い、重要な経済インフラを民営化した結果、経済面では後退したとも言われた。

2004年の選挙で大統領になったビング・ワ・ムタリカ博士は、UDFが擁立した人物ですが、特に経済運営面で、カムズ政権時代への回帰を唱え、就任時には「私たちは自分たちの国を発展させることができる。外国の助けも借りるけれども、発展の形は私たちが描くのです。」とスピーチをしている。

そのムタリカ大統領は05年にはUDFを離脱して自分の政党であるDemocratic Progressive Party (DPP)を設立。大統領についていく形でUDFなど既存の政党から議員が離脱したが、それでもなお昨年の国会ではUDFとMCPが半ば連立したような形で国会の議席数188(全議席数193に対して、当時5議席が空席だった)の内、107議席を占めて多数野党を形成、その中に議員の出身地別の対立も入り込み、国家の年度予算成立への妨害や、大統領弾劾動議が提出され、合間にストレスであろうか、国会の議長が会期中の議場で心臓発作で倒れて帰らぬ人になるなど、政治的には非常にturbulent(大荒れ)な一年であった。

しかし05年12月に行われた議員選挙の補選は、大統領の党であるDPPに対する信任投票のような形となって、5議席全てでDPPが当選した。大統領も「たとえ弾劾されても、もう一度選挙に出て勝利する自信がある」とコメントしている。そのせいか、これも元旦のTV Malawi番組「大統領日記Presidential Diary」では、国民への新年のメッセージとして大統領が次のようにスピーチした。「私は2004年の当選後、昨年までにXX道路やXX水路、国会議事堂建設など、さまざまな開発プロジェクトを立ち上げてきました。開発プロジェクトのサイト選定には、その選挙区の議員が政権側であるかどうかは関係ありません。(中略)野党の皆さんも一緒に国の開発のために頑張りましょう。」大統領は比較的簡単だが、自分の実績をアピールしつつ、野党に対しては、政治的に自分に刃向かうのではなく、一緒に開発を頑張ろうと言っているのでした。

私 「ところで、バンダ大統領の「四つの礎」だけど、Loyalty(忠誠)とUnity(団結)、Discipline(規律)までは今でも大事にした方がいいように思うけれど、Obedience(従順)というのは誰に対するObedienceだったの?」
夫 「特に誰に対する、ということではなくて、Don't argue, just do it ということだよ。」

むむ。独裁政権で名高い「カムズ大統領」に対する服従、ということではなく、「不言実行(理屈を言わずにすべきことを黙って実行すること)」ということだったのか?本当にそうであれば、今も生きるべきValueだとは思うけれど。

私は、大雨の中、暮れていく元旦につらつらと次のようなことを考えました。マラウイの人々が、誰かにObedient(服従する)になるのではなく、自分たちで考えて、働いて、自立できる社会になるよう、自分は開発コンサルタントとして、またNGOのメンバーとして、「夫が申すところのObedientに」マラウイの開発・発展に少しでも貢献していけたらいいな、と。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

(以前のマラウィ徒然バックナンバーはこちら

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.12.05

ケニア・タンザニアでのボランティア-その4 アルーシャ編(早川元貴)

(前回のコラム「ケニア・タンザニアでのボランティア-その3 ナイロビ編」) 

4週間のボランティアも丁度折り返し点に達し、三週間目にはタンザニアのアルーシャに移動しました。アルーシャは私の勤めた東アフリカ共同体(EAC)の本部のある街です。以前お話したように、EACの加盟国はケニア、タンザニア、ウガンダの三国で、本部には200人ほどの職員が勤務しています。EACの本部が置かれている建物にはルワンダ国際刑事裁判所が入っていることもあり、国連職員や滑稽な白いカツラを被った裁判官の方を良く見かけました。ちなみに、私の滞在したアルーシャのホテルの冊子には「ようこそアフリカのジュネーブへ」、というような行があり、思わず苦笑いしてしまいました。

アルーシャでの私の主な仕事は、ダルエスサラーム、ナイロビでコンタクトを取った大使館、援助機関へのフォロー・アップとEAC保健部門のドナー・アウトリーチ戦略の作成です。また、私がアルーシャに着いた翌週に加盟国の保健大臣会議が開催されるということでその準備、会議中の事務的アシスタントも担当させていただきました。上司が言うには、この保健大臣会議ではEACの保健部門のプログラムの今後5年間の戦略的方向を決定するということで、かなり重要なものだということです。

会議期間は4日間でしたが、加盟三カ国の保健省から総勢30名ほどの代表団がやってきました。初日、二日目は高級事務レベルの会議で、各国保健省の事務次官とその補佐の方が中心となってEACの保健プログラムについて専門的な政策議論が展開されました。この事務次官レベルの政策議論は二日間延々と展開され、それぞれの国内事情、エイズなどの保健問題の政治的見解などを聞くことが出来、非常に面白いものでした。

高級事務レベルの会議では、事務次官とEAC事務局(私の上司)が政務官に提出する戦略文書を作成するのですが、30名の参加する文書作成過程はまさに議論、議論でまた議論です。そして30ページほどの下書き文書を一行、一行全体でレビューして行きます。「ここのセンテンスは“the”ではなく“a”であるべきだ」など、文字通り「重箱の隅をつつく」プロセスです。

3カ国の代表団の間で見解の違いがあり、事務次官レベルで取りまとめるのにかなり時間がかかりましたが、3日目には、無事、三カ国の政務官がEAC事務局が取りまとめた戦略書に署名、最終日には保健大臣が戦略合意書に署名して会議は終了しました。私はコピー取りなどに走り回ったり、かなり雑用作業に追われましたが、事務次官レベルのセッションの進行を担当させていただいたり、地域レベルでマルチの政策交渉の場に携わる有意義な経験をさせていただきました。

誰が言ったのか覚えていませんが、アフリカの経済発展の遅れの一つの要因として、「アフリカの人はあまり働かない、あまり勤勉でない」ということを耳にしたことがあります。そのときは「へえ」と聞き流していましたが、今思うと無性に腹が立ってしまいます。今回の滞在を通じて感じたことは、むしろ「アフリカの人は良く働く」ということです。少なくとも、私の出会った人達、ホテルの従業員にしろ、道路の清掃員、保健省の役人、EACのスタッフから受けた印象は、本当によく働く、というものです。特に、私の上司は本当に体力的にタフです。

その一方で、アフリカ社会の物資の不足という問題は非常に身近に感じられました。ぼろぼろのホウキで道を掃く裸足の清掃員の人たち、午前中一度もクラッシュしなかったらラッキーと感じさせるコンピューター、大量コピーをすると必ず紙詰りを起こすコピー機、ハサミと糊を使った手作りのアドレス・ラベル(EACの秘書は「アフリカ・スタイル」と呼んでいましたが。)、ワシントンDCやジュネーブの職場で当然と思っていた些細な物が、アフリカでは手に入らない、またそのことでフラストレーションも溜まりました。そんな訳で、現地人、外国人を問わず、そんな物資に恵まれていない環境の中で毎日熱心に働く人達には、ただただ頭がさがる思いです。

ボランティアを終えてジュネーブに戻ってきてから1-2週間ほどは本当に上機嫌というか、自分でも身体の調子が良いというのが感じられました。それはタンザニアからジュネーブに戻ってこれたのが嬉しかったのか、或いはボランティアで良い経験をした為かは定かではありませんが、今回のボランティアが自分にとって良い経験であったということには変わりはありません。

ボランティア期間中はいろいろな経験をしましたが、その中でも、実際にフィールドを自分の目で見ることができたこと、アフリカでも自分のスキル・専門知識を活かして仕事が出来るという自信がついたことが最も大きな収穫でしょうか。現地の人との触れ合いも間違いなく貴重な経験だったと思います。

渡航前、以前務めていたワシントンDCのNGOの上司から「アフリカの人の親切さ、優しさを実感する良い機会になるね」てなことを言われました。セネガルに住んだことのあるWHOの同僚もアフリカの人たちの親しみやすさや人懐っこさについて、いつか話していました。アフリカを画一的に捉えて美化するつもりはありませんが、今回のボランティアを通して考えると、やはり彼らの言っていたことは多かれ少なかれ当たっていたかなっという感じがいたします。

「来年また来るかもしれません。」と別れ際に上司に半ば冗談で言いましたが、機会があれば是非もう一度訪れたいと思います。「フィールドに行こう」は、またしばらく私の目標になりそうです。

バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.11.14

行動変容へのあくなき挑戦(位田和美)

(前回のコラム「エイズ予防活動のその後」)

セネガルへ赴任してから1年半が経過した。ここにきて「啓発活動」の限界を感じ始めている。疾病予防活動にしろ、就学促進活動にしろ、活動開始当初は村人にいかに「聞いてもらうか」「知識を得てもらえるか」を主眼に置き、楽しみながら活動することを一番のモットーとしていた。しかしながら、知識伝達がある程度達成できたと感じられる現在では、もう一歩踏み込んで村人の「行動変容」への動機づけを目下の目標としている。

そんな折、友人の紹介で州衛生局の副局長と知り合いになった。この副局長は数々の研修を受けた上に実地経験も積んでおり、お話上手でかつ聞き手の的をついている。そこで、悩みの種の課題を相談させていただいたところ、懇切丁寧に行動変容理論を説いていただいた。大変興味深かったので、以下に紹介させていただくことにする。

曰く、人間が何か行動を起こすには8つのステップが必要である。
1. 知識: 行動(習慣)と問題の因果関係を認識
2. 関心: 個人的信条や他の人の意見に基づき、行動を起こそうとする態度/素振り
3. 決定: 行動しようとの意志決定
4. 試行: 薦められる行動を取ろうとする第一段階の試行
5. 放棄: 試行(行動)しても成果が見えないことからくる、中断の意志決定
6. 維持: 行動継続/再試行
7. 再放棄:行動を継続しようか否か迷いつつも、再中断
8. 採択: 恒久的な行動継続
ただし、1-8までスムーズに進むのではなく、各段階間を行ったり来たりもするものである。

なるほど、上記のように理論立てて説明を受けてみれば、非常に合点がいく。また、上記に沿って今までの啓発活動を位置づけてみると、まだほんの第一段階であることが整理できた。そして現在進行形の活動では、第二段階の「関心」のきざしが見えてきており、3「決定」へ向かうべく一生懸命働きかけているところであることがわかってきた。この理論を知らない頃、自身の勝手な感覚では、恐れ多くも現状は6「維持」か7「再放棄」あたりかと思い違いをしていた。やはり論理的検証は何事にも必要不可欠である。

さて、このように整理できたところで、一言で「行動変容が課題」と言ってもさまざまな段階があることがわかり、現状の課題もより明確になってきた。まず、2「関心」の段階で重要なのは、個人個人の認識や関心を形にする際の強力なサポートとなる村全体の連帯感と組織力であろう。その後の3「決定」や4「試行」は個人個人に委ねられるが、ここで外部者にできることと言えば、5の「放棄」に至る動機づけの軽減であろう。それは保健分野を例に挙げるならば、保健状況向上の実現にかかるコストの削減、現金収入向上(収入手段の確保および多角化)、労働負担の削減に伴う保健状況向上にかける時間の創出ということが考えられよう。残り任期の半年間は、かなり長期的な目で見たときの最終目標としての8「採択」を見据え、理論上予想し得る課題を先回りして考え、村人と共に準備していきたいと思う。

バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.10.24

ケニア・タンザニアでのボランティア-その3 ナイロビ編(早川元貴)

(前回のコラム「ケニア・タンザニアでのボランティア-その2 ダルエスサラーム編」)

ボランティア中に一週間ほどケニアのナイロビに滞在する機会がありました。EAC主催のE-ガヴァナンスの会議がナイロビで開催されていて、私の上司が保健情報処理システムに関して発表をするということで、私も同行することになりました。また、上司はナイロビ出身ということで、彼の実家を訪問する、ということもナイロビ出張の理由の一つでした。EACの保健プロジェクトへの資金調達という点からは、ナイロビに駐在する各国大使館を訪問するという狙いがありました。

ナイロビに到着して最初に目についたことは、やはりナイロビ市に見られる高い経済発展のレベルです。ダルエスサラームと比べ、はるかに近代化しているという印象を受けました。市内のインフラを見ても、想像していた以上にナイロビは発展しているなあと感じました。その中でも、一番の驚きは、市内にあったショッピング・モールです。その規模、品揃えは、アメリカの片田舎に見られる中規模ショッピング・モールに匹敵するものがあったのではないでしょうか。便利さ、という点だけに目を向ければ、ナイロビは他のアフリカの都市よりもはるかに進んでいる言えるのではないでしょうか。その一方で、貧困層の集中するスラム街に足を運ぶ貴重な機会がありました。

7月のナイロビは丁度冬の時期に当たるそうですが、勉強不足の私は現地に到着するまでそのことを知らず、「ケニア=アフリカ=暑い」という公式を勝手に作っておりました。日中はポカポカ陽気で暖かいのですが、夜になると結構冷え込みます。最初は、大した寒さではないと意気込んでおりましたが、ナイロビ到着後2、3日で諦めて長袖のトレーナーを購入しました。アフリカで長袖のトレーナーを買うことになるとは想像していませんでしたが、この長袖トレーナーは後で滞在した冬のアルーシャでも大重宝でした。

ナイロビには1週間ほど滞在しましたが、会議への出席、保健省スタッフとの会合、駐在大使館への訪問の時間の合間を縫って、ナイロビ郊外にある上司の実家を訪問してきました。実家訪問は今回のボランティアで受け持った仕事とは直接関係は無かったのですが、渡航する前から、上司は私を彼の実家に連れて行きたいというようなことを言っていました。何でも実家のある村は電気も無いところだが、非常に景色の綺麗なところだということでした。特に、自慢の牛の乳を搾って飲ませたいとのことでした(?!)...

ナイロビから車で5時間ほどの上司の実家のある村は、近代的なイメージのナイロビとは一転して、本当に緑以外は何にも無いところでした。村の住民を貧困層と呼ぶべきかどうかは定かではありませんが、決して裕福な村でないことは村の建物、出会った人たちから充分察することが出来ました。それでも、我々が到着するやいなや、どこからとなく集まってきた上司の「家族」は、表情が明るく、礼儀正しいく、非常に親しみやすい人たちでした。さすがに電気もない上司の実家に泊まるのは大変だろう、という気遣いで、村では旅館に泊まりました。なんとなく刑務所を思い出させるその旅館は政府公認一つ星だそうです。高地にあり、朝夕とかなり冷え込みましたが、当然というか、温かいシャワーなどはありませんでした。

「貧困を見なきゃ、貧困削減は語れない」というのは、ボランティア中に上司が口癖のように言っていたことですが、上司が伝えようとしてたことは、貧困層地域に足を運び、そこで実際に生活してみること無しでは、貧困層の視点を貧困削減政策、プロジェクトに取り入れることは難しいということではないかと理解しています。貧しい村で数日生活しただけで、現地の人たちの視点が理解できた、というつもりは到底ありませんが、たとえ僅かでも現地の人たちの生活を体験することは、今後貧困問題を考えるときに役立つような気がします。当たり前のことかもしれませんが、本部勤務になれた私には非常に貴重な体験でした。

バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.10.10

津波被災地復興支援の現場から(5)(里見陽子)

(前回のコラム「津波被災地復興支援の現場から(4)」)
雨季が近づいている。朝晩は一瞬スリランカにいることを忘れてしまうくらい、空気がひんやりしている。2~3ヶ月前なら、朝から太陽がぎらぎら照って、仕事場へ向かう車の中でもじりじりと肌を日に焼いていたものだが、そんな朝の日差しがないと拍子抜けさえしてしまう。慣れたはずの冷たい水シャワーも、この時期はちょっとつらい。常夏の国でも季節はあるものだと、あらためて認識する。

東海岸の町カルムナイ周辺では、海岸から2~3キロを海岸線と平行に走るメインロードより内陸に、一面の水田が広がる。4~5月には育ち盛りの稲の生き生きした緑が美しかった田んぼも、今は収穫の時期も過ぎ、藁が積み上げられている。害虫対策だろうか、夕方になるとあちらこちらで田畑が焼かれているのを見かける。スリランカは二期作が多いと聞いているから、しばらくしたらまた田植えが始まるのだろう。

決して長い期間ではないが、7ヶ月にわたってこの地域で活動してきた中で、こうした自然環境の移り変わりを感じとることができ、新たな発見もあって興味深かった。また何より、災害後の復興という時期にあって、様々な人的・物的要素が大きく変化するのを見たり感じたりすることができ、それは私自身の日々の活動に刺激とやりがいを与えてくれた。

9ヶ月前に未曾有の津波被害を受けた町は今、復興への道を歩んでいる。と言っても、まだ多くの被災者がキャンプや仮設住宅での暮らしを余儀なくされているし、学校だって元通り正常に機能しているかと言えば、そんなことはない。癒されない傷を心に抱えた子どもたちも、まだたくさんいるだろう。それでも、津波で全てを失ったことを嘆いてばかりいるのではなく、そこをスタート地点にしてもう一度頑張ろうという、外部者である我々には計り知れないくらいの強さを持った人々がいて、それが彼らを前へ前へと動かしている。

ある時、一人の校長がこう言った。「ツナミは我々にとって本当に本当に悲惨な経験だったが、だからといって、いつまでもツナミのことを言い訳にしてたんじゃ駄目なんだ。被災したから仕事ができない、学校に来られない、遅刻したって仕方がない、とか何だって言い始めればいくらでも出てくるが、そういうことを習慣化させてはいけない。我々は、次にどんな災害が来ても大丈夫なよう、備えておかなきゃならないからね。」

そう、突然の大災害というこれだけの厳しい経験をしたのだから、この先どんなことがあろうと、彼らなら大丈夫なはず。大丈夫であってほしい。災害時、いや災害が起こらなくとも、援助が与えられるのを待つだけでなく、また上からの言いなりになるだけでなく、彼ら自身が、様々な外部支援の中から、自分たちの生活や教育やコミュニティの強化改善のために良いと思われるものを選択し、調整し、利用できるようになってほしいと思う。結局、外部者にできることは限られているのだから。そして、援助活動をそういう方向に持っていくことが、緊急援助から復興への橋渡しにつながるのではないか。

私はこれまで、紛争後の緊急援助から長期的復興・開発への移行に関心を持ち、テーマとして扱ってきた。もちろん津波災害は紛争とは違うが、今回津波被災地復興支援の現場での活動を通じて、私自身あらためてスタート地点に返ったような気がする。さあ、心新たに、次も頑張ろう。

バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.09.26

ケニア・タンザニアでのボランティア-その2 ダルエスサラーム編(早川元貴) 

(前回のコラム「ケニア・タンザニアでのボランティア-その1 経緯 編」)

「生野菜は食べちゃだめだよ」――これは行きの飛行機の中で出会った、タンザニア生活20年というアメリカ人女性からの親切なアドバイスです。そう言われて、かじりかけた機内食の野菜サンドイッチからあわてて口を離す私に、衛生状況が良くないから彼女でもレストランや機内食の生野菜は口にしないのだと説明してくれました。ちなみに、彼女は機内食のチキンにも苦い経験があるのだそうです。

ケニアのナイロビからタンザニアのダルエスサラーム行きの飛行機で偶然隣席したこのアメリカ人女性はダルエスサラームでストリート・チルドレンの学校を運営しているのだそうです。そんな訳で、彼女からはいろいろ生活面でのアドバイスをいただきました。彼女の運営する学校は、タンザニア政府や各国大使館からも支援を受けているということで、タンザニアにおける資源動員活動などについても良い話しを聞かせてもらいました。ちなみに、彼女のアドバイスのおかげで1ヶ月のボランティア中は決して生野菜を口にすることはありませんでした。

しかしながら、このボランティア中に食べ物に困ったということは全くありませんでした。ダルエスサラームでは美味しい現地料理を堪能させていただきました。香辛料、ココナツミルクで味付けしたご飯が格別に美味しく、また、海が近いこともあってか、魚料理は最高でした。さらに、インド人移民が多いということでいろいろなカレーを満喫することもできました。

ボランティアの受け入れ先であるEAC本部はタンザニアのアルーシャにあるのですが、私の所属部署である保健部門が、首都ダルエスサラームで1週間ほどGIS(地理情報システム)のトレーニングを行っていることで私も上司に同行してダルエスサラームに滞在することになりました。しかし、トレーニングには少し顔出す程度で、ほとんどは私の担当である資源動員関連の活動をしておりました。

実際には、ダルエスサラームにあるドナー国の大使館に連絡を取り、保健分野の資金協力を要請するというものです。上司のアドバイスで、特にEACの企画している保健プロジェクトの中でも、エイズ治療の評価、GISを中心とした保健情報処理システム、アフリカ・トリパノソーマ症(Trypanosomiasis)対策の三つのプロジェクトを集中的に売り込むということになりました。

個人的にはアフリカ・トリパノソーマ症対策のプロジェクトに特に興味を持ちました。アフリカ・トリパノソーマ症は眠り病とも呼ばれるもので、サブサハラ・アフリカを中心に生息するツエツエバエという吸血蝿によって伝播される脳炎です。悲しいことに、現在ある治療薬のほとんどが、何十年も前に開発されたもので、かつ深刻な副作用を伴う可能性が高いという状況です。
数年前に、日本のテレビでもアフリカ・トリパノソーマ症 について報道されていました。脳炎のために食事の際でもウトウトと居眠りしてしまうように意識を失ってしまう少女の姿にひどく胸を打たれたのを覚えています。

「はじめまして。EACの早川元貴です。保健プロジェクトの資金協力をお願いしたいのですが。」――これは、ボランティア期間中に呪文のように繰り返したフレーズです。ダルエスサラームだけでも20近くの大使館、援助機関にコンタクトを取りました。しかし、電話をしても、保健担当のスタッフにすんなりたどり着くことは例外で、何度も掛けなおしをすることが必要でした。電話で「保健プロジェクトの担当者をお願いします」と言ったため、大使館の保健室につなげられたことが幾度もありました。ようやく大使館の保健担当のスタッフにコンタクトすることができても、EACを現地NGOと勘違いされて面会を断られるということもありました。「何で、日本人がEACの保健プロジェクトの売り込みをしているの」というような質問をされることもありました。

担当者が不在ということで留守電にメッセージを残す場合でも、また折り返し電話をかけ、数日まっても、相手からまったく反応がないとこっちも半ば意地になって電話を何度もかけなければなりませんでした。最初は、少しおどおどしていた「呪文」も、2,3日ですんなり唱えれるようになったのではないかと自負しておりましたが。

ダルエスサラームでは、上司と共に現地のホテルに宿泊しました。一泊40ドルくらいの、現地基準からすると結構高級ホテルのはずだったのですが、ちょっとしたトラブルもありました。シャワーが出ないのです。蛇口を全開にしても生ぬるいお湯が文字通り水滴程度にでるだけなのです。まあ、浴びないよりはましか、ということで半ば諦めてしまいましたが。

ホテルの部屋には蚊が出るということで、毎晩ホテルのスタッフが殺虫剤をスプレーしにきます。マラリア予防のために携帯の蚊帳をジュネーブから持ってきたのですが、いまいち部屋のつくりが蚊帳に対応しないということで蚊にはかなり敏感になっていました。部屋には蚊のほかにヤモリが出没し、食堂ではゴキブリが駆け回るというホテルでしたが、先ほども言ったように、食事はとても美味しくいただくことができました。ホテルのスタッフもとてもフレンドリーでタンザニア人の温かみを知ったような気分させられ、総合的には非常に良いダルエスサラームの滞在でした。

バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.09.19

エイズ予防活動のその後(位田和美)

(前回のコラム「「できること」から・・・」)
いつしか保健啓発活動が私の活動の中核を占めるようになってきたことは前回のコラムでも記した。今回は、保健啓発活動のひとつとして、昨年から活動展開を試みているエイズ予防活動のその後をご報告したい。
先のコラムで書いた紙芝居のフランス語訳を知人の高校生や大学生の有志と一緒に細々と続ける一方、郡庁やNGOが主催する、小学校の先生や地域保健員を対象としたエイズ予防セミナーにて紙芝居をエイズ予防教材として紹介することとなった。

紙芝居。日本人には馴染みの深い情報伝達ツールだけれど、果たしてセネガル人に受け入れられるのか。ちゃんと最後まで聞いてもらえるのか。また、ジョイセフから寄贈された、この「終わらないさよなら」という題名の紙芝居は、アフリカのとある国に住む小さな女の子が大事な家族をひとり、またひとりと亡くしていく悲しい物語である。(注)物語の中にはHIV/エイズの知識だけでなく、HIV/エイズという病気が持ち得る社会問題(HIV/エイズに対する無知から来る差別)まで取り上げている。このような複雑で悲しいストーリーを、根から明るいセネガル人が好むのか。また、HIV/エイズ感染率が比較的低く、HIV/エイズ患者の存在が身近でないセネガルの村落部において、物語の内容が難しすぎないか。いくつかの不安材料を抱えつつも紹介してみると、以前から「複雑なエイズの知識をいかに子どもたちにわかりやすく伝えるか」、「多様な教材を使っていかにエイズに関する知識の深堀りを図るか」という問題意識を抱いていた小学校の先生のニーズとぴったり合っていることがわかった。また、電気設備の整っていないほとんどの学校では、セネガル人の好きな映画上映もままならず、持ち運びが簡単な点でも紙芝居の評価は高かった。

実際に、エイズ予防教育の要請を受け、紙芝居上演を行った村の小学校では、生徒たちはきれいな挿絵や紙芝居の舞台となった村と自分たちの村との文化的・社会的慣習の近似性がたくさん盛り込まれているストーリー展開に惹き込まれ、約1時間という長丁場ながら夢中で耳を傾けてくれた。

また、別の村の小学校では、毎年開催されている文化祭の出し物として、この紙芝居のストーリーを基にした劇をしようということになり、全学年入り乱れてのベストキャスティングで劇団を結成した。総じて、セネガル人は劇が大好きで、演じるのも非常に上手い。この劇団結成のニュースは、練習開始早々、近隣村にまで口コミで話題となっていった。そして、文化祭当日。練習開始当初は恥ずかしそうに演じていた子も堂々と演じ、また、最初から演技の上手かった子もアドリブに磨きをかけ、最高の出来となった。近隣村から大勢駆けつけた観衆も、全員が食い入るように鑑賞するほど盛況を期した。また、文化祭前夜に、医療機関とNGOの協力を得てエイズ予防啓発の映画上映を実施していたことも、少なからず観衆の劇への関心を高めていたのかもしれない。

正直な話、これらエイズ予防活動を展開している最中も、「都市部ではともかく、村落部でエイズ予防活動がどれほどの重要性を持つのか」「予防法や血液検査の重要性を伝えても、対策を講じる手段は極めて限られているのではないか」「活動内容が村人の理解・関心にマッチしているか」という疑問が解消される日はなかった。

しかし、ラジオでよく耳にする「エイズ」という病気について知りたい、という基本的知識欲求を村人皆が持っていることは事実であり、そのニーズに応えることは村落開発に携わる者として必要なのであろう、と思っている。また今回、紙芝居や映画、劇といった多様なツールを効果的に使い分け、繰り返し知識を伝えることの重要性も充分学ばせてもらった。特に、劇は演劇好き・演劇上手なセネガル人の気質に合っており、演技者が村人自身ということで観衆の関心も高まり、劇後にも話題性の高い、有効な情報伝達ツールであると認識することができた。どんな活動でもそうであるが、その地域の人々が生き生きとする最適な伝達ツールというものが存在する。それを最大限活かすべく策を凝らすのがファシリテータの役割なのであろう。口承文化が発達し、公用語のフランス語も国語による識字もまだ充分普及していない中、「上からの政策」とも言い得るエイズ紙芝居の読み手育成講座の実施をめぐり、医療機関との協議が頓挫している今日、改めてそう思う。
-------------------
(注)本紙芝居はエイズがもたらす「悲しさ」をテーマとしているのではなく、アフリカのとある国の現実を忠実に描きつつも、この現実を前に、地域コミュニティは「どうするのか」「どうしようか」という問題提起を主眼としている、ということを書き添えておきたい。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2005.09.05

ケニア・タンザニアでのボランティア-その1 経緯 編 (早川元貴)

私の勤務するWHOの雇用形態はさまざまですが、11ヶ月短期契約職員というのが私の身分であります。要は、11ヶ月ごとにWHOとの契約を更新しなければいけないというものですが、新しい契約を交わし仕事を再開する前に1ヶ月間の無給休暇(コントラクト・ブレイク)をとらなければいけないという規則があります。短期契約職員の多くは、この無給休暇を利用して出身国に一時帰国するというのが通例であります。一時帰国を奨励しているためか、実際にWHOからも旅費が支給されます。

昨年7月からWHOに勤務し始めた私にも、今年の6月にコントラクト・ブレイクがありました。以前から、日本に一時帰国するという気は全く、1ヶ月の休暇を利用して私がしたかったことは途上国のフィ-ルドに行ってボランティアをすることでした。そのために、少し貯金などもしておりました(あまり貯まりませんでしたが)。

なぜ、途上国の現場に行きたいのか。しかも自腹を切ってまでボランティアをする理由とは何か。こう問われると未だに明快な答えが見つかっていないことを白状しなければいけませんが、一ついえることは、途上国の現場には自分で努力しないと中々いけないということであります。

職種やレベルにもよりますが、私のようにジュニア・レベルで資源動員などという仕事をしているとなかなか途上国に行ってプロジェクトの現場を見るという機会がありません。これは、別にWHOに限った事ではなく、以前勤めていたワシントンDCのNGOでも同様でした。すでに途上国経験のあるテキーと呼ばれる(?!)技術系専門職の人は、途上国の現場に行く機会が多くあるのですが、本部の組織管理を担当するジェネラリストにはなかなか現場に行く機会は回ってきません。少なくとも、それが私の印象であります。

泥臭い現場に足を運ぶことなく、途上国の問題を知った気になることはいくらでも可能であることも事実だと思います。その一方で、自分の目で見て体験したことのないことを語ることに、個人的な「罪悪感」のようなものを感じていたということも、今回、途上国のフィ-ルドに行ってボランティアをするを決めた理由の一つであったと思います。

将来のキャリアにも良いのでは、とふと思ったことも正直なところです。途上国の経験を積むには途上国の経験が求められるという開発業界において「無い経験は語れない」と開き直って、或いは諦めてしまうことも可能ですが、自分で切っ掛けを作ってでも途上国で自分の力を試し、それを将来につなげたいと少し野心的に考えていたこともまた事実です。とは言っても、「まあ、多寡が一ヶ月、生活が合わなくてもすぐ帰ってこれる」と結構気楽に考えてたりもしていました。

当初、ボランティア先は、アフリカにあるWHOのフィールド・オフィスなどを考えていましたが、WHOの職員規定でコントラクト・ブレイク中はWHOで働くことは禁止されているということで、他の受け入れ先を探さなければなりませんでした。最終的に受け入れていただいたのは、タンザニアのアルーシャに本部を置く東アフリカ共同体(EAC)という地域間機構です。現在、加盟国はケニア、タンザニア、ウガンダの三国、職員数200人ほどの小さな国際機関です。私は、そこの保健部門でボランティアをすることに決まりました。

採用のプロセスは簡単で、WHOの同僚の同僚に紹介されて、履歴書を送ったらすんなりOKの返事が来ました。電話面接もありませんでした。とは言っても、その同僚には仕事の忙しい中、わざわざ推薦文を書いていただくなど、非常にお世話になりました。全額自費でのボランティアということもありましたが、即採用となった一番の要因はWHOの同僚の紹介であったと思います。恥ずかしながら、その同僚に紹介されるまで、私はEACの存在すら知りませんでした。改めて、人脈、ネットワーク(コネではありません)の重要さを実感させられた思いです。
筆者プロフィール

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2005.08.22

「できること」から・・・(位田和美)

(前回のコラム「PLA実施」)
赴任当初から(今から思えばツールの実践としての)PLA実施にこだわりつつも、村によっては実施に踏み切れなかったり、実施してもその後の活動へ効果的につながっていかなかったり、と活動方針や活動内容を探る日々が続いた。その一方で、配属先からは「女性グループの組織化」を支援するようにとのお達しが下った。「女性グループの組織化支援」と言うと聞こえはよいが、ここでは住民にとってかなり高額な登録料を支払い、煩雑な事務手続きを行い、各国政府がフィナンスする女性対象のプロジェクトに申請するよう住民の総意を取り付けることを意味する。配属先にとっては、登録されないグループはいくら活動の実が伴っていようと意味を持たないようだ。またもや登録グループの数を「配属先の成果」として重視しているともとれる業務命令だ。財源の乏しい地方行政機関としては致し方のないことか、でも、登録するしないに関わらず、やる気のあるグループを積極的に支援するべきではないのか、などと青臭いことを考えたりもした。しかしながら、手段はともあれ、登録制度の存在を知るということ自体が何かしらの住民活動機会の提供になれば、また、これが長年地域開発を担ってきた配属先の経験に裏打ちされたセネガル式のやり方なのかもしれない、という想いから巡回村の住民たちと話をしてみた。すると案の定、あまりに自分たちの現実とかけ離れた話である、と途方に暮れている。やはり、住民の身の丈に合った活動を展開するためにも、とにかく自分に「できること」から手をつけ、住民の反応を見ながら進化していくしかないな、と観念した。配属先には「まだ私自身に住民を組織化する力量が備わっていないので。」と、組織化にとらわれず自由に活動させてもらえるよう理解を取り付けた。

さまざまな試行錯誤を経て、いつしか保健啓発活動が私の活動の中核を占めるようになってきた。保健啓発活動は、医療機関やNGOと協力し、村の保健施設や学校を舞台に、人々に基礎保健および疾病予防の知識を伝え、地域の保健衛生状態を改善することを目的としている。私は誰でも目で見てわかるように、視覚教材を中心に、ときに歌をまじえたり、紙芝居をしたり、簡単な実験をしたり、と自分も聞いている相手も楽しめる時間になるよう工夫してみた。実際には、外国人である私がカウンターパートと一緒に皆の前に立つだけで、まず人々の目をひき、また、つたない現地語で話したり歌ったりするのが人々の好奇心をくすぐり、結果的に保健啓発活動が住民の一種の娯楽ともなったようだ。これにより、住民との距離がぐっと近くなったような気もする。やはり「体験を共有する」ことは大切だなと思った。

機材や特別な専門知識がなくても「できること」から、皆と一緒に楽しみながらの活動は、協力隊活動のとっかかりとしてまずまずの感触を得た。しかし、とっかかりはとっかかりでしかない。この保健啓発活動に限っても、(1)基礎保健知識の横の展開(地域全体への普及)、と(2)これら保健啓発講座で見聞きした知識を実践するに至る行動変容の促進は、任期中を通して考え続けていく大きな課題である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.08.15

津波被災地復興支援の現場から(4)(里見陽子)

スリランカの現場で日常生活やプロジェクトの活動を左右するもの、我々の頭を悩ませるもの、それはハルタール(harthaal)と呼ばれるストライキ(抗議行動)である。プロジェクトの実施において、重要な外部要因であると言える。「ハルタール」の語源はよくわからないが、インドやバングラデッシュなど他のアジア諸国でも使われているようなので、外から入ってきた言葉なのだろう。スリランカでは、シンハラ語・タミル語共通の言葉として一般化している。

ハルタール中は政府機関が閉鎖、商店もすべて営業停止し、普段なら通りを賑わすバスも運行停止になる。学校もそのほとんどが休みだ(ただし最終的に学校閉鎖にするかどうかは校長の判断であり、ハルタール中にも関わらずやっている学校も、たまにある)。これだけでも地域経済や市民活動に大きな打撃であるが、もっとも怖いのはその抗議行動が暴力化することである。例えば、石を投げつける、タイヤを燃やす、電柱やブロックなどで道路を封鎖する、道路の真ん中で炊事を行う、など。

これまではハルタールと言えば、反政府組織LTTE(タミル・イーラム解放の虎)の支配地域および支配力の強い地域における、LTTEの対政府抗議運動であることが大半だった。ところが最近ではいろいろなタイプのハルタールが頻発している。

例えば、避難民キャンプ住民によるハルタール。政府による津波被災者支援が満足に届いていないという不満から、避難民キャンプ住民がハルタールを実施する。地元からも有力政治家が出ているのに、大臣となった彼らが、被災した住民のために何もしれくれない、という不満に加え、不自由なキャンプ暮らしがこの先いつまで続くのだろうかという、先行きの見えない不安。そういったものが時折住民たちを動かし、抗議行動が実施される。

ムスリム住民によるハルタールもいくつか続いた。6月24日、スリランカ政府とLTTEの間で津波復興支援事業の調整機構Post-Tsunami Operations Management Structure (P-TOMS) の設置に関する合意文書(MoU)が調印されたのを受け、これに反対するムスリム住民・政党がハルタールを繰り広げた。P-TOMSにおいて、ムスリム勢力がLTTE同様の扱いを受けていない(署名者になっていない)ことに対する抗議が主な理由と考えられる。

このような政治的に不安定な地域で活動する我々としては、安全管理に大変気を遣う。「明日はハルタールがあるらしい」との情報を受けると、その地域に出入りできなくなるので自宅待機となる。(私が住んでいるのは、LTTE勢力範囲外で津波の被害も受けていない内陸の町。)

「午後からハルタールがあるらしい」という情報が確認されれば、事務所閉鎖となり、職員は皆先を争うようにして帰宅する。道路が封鎖される前に、あるいはバスが通っているうちに、速やかにその地域を脱出しなければならない。

こういうことが、ほぼ毎週のように起こる(避難はしたが、結局単なる噂だけだったということもある)。計画を立てて仕事を進めることができないのは、我々にとって大きな足かせだ。しかし、これがスリランカの現状である。自らの安全確保のためにも、必要な情報をキャッチする「耳」と「感覚」が重要だと感じている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.08.01

女子教育とは(利根川佳子)

今回で6回目を向かえることになったコラムであるが、インターンのテーマであった女子教育について書き、私のコラムを締めくくりたい。

私個人のこのインターンシップの目的は、教育における男女格差がなく、女子生徒がエンパワーメントできる教育とはどうあるべきかということを、エチオピアでの実際の現場を見ることで考えてみるということであった。

国際開発の中で、女子教育は注目されているテーマのひとつである。2000年の国連ミレニアム宣言では、初等・中等教育におけるジェンダーの格差をなくすことを2005年までに解消し、2015年までには全教育段階における格差を解消することを目標としている。2005年というと、まさに今年なのだが、目標達成は難しいだろう。

このような世界的な流れもあり、ユニセフは女子教育プログラムを世界中で展開している。 1996年から行っているAfrican Girls Education Initiativeという女子教育プログラムも、アフリカだけでなく世界中で展開することになり、Girls Education Initiative に拡大した。

私はユニセフ・エチオピア事務所の女子教育プログラムのインターンであったわけだが、運がよかったのは、当時の教育オフィスのヘッドは女性で、個人的にも女子教育に思い入れがある人だった。彼女の影響もあり、ユニセフ・エチオピア事務所の教育オフィスは女子教育に傾倒していたため、男性職員も女子教育について理解を示していた。だが、これが他の事務所でも同じかどうかはわからない。 実際に、今年の8月から男性の新しいヘッドに代わることになり、女子教育担当者は女子教育への取り組み方の変化を危惧している。

女子教育はなぜ重要なのか。

エチオピアにいる間に自分の仕事について聞かれることが良くあったので
「ユニセフの女子教育プログラムのインターンだ」と答えると、
「何で女の子だけなんだ?男の子だって教育が必要だろ?男は大事じゃないのか?」
と言われることが何度もあった。女子教育を掲げているNGOの職員にさえ、このような質問をされたことがあった。

そのときの私の答えは、
「男の子よりも女の子の方が学校に行ってないでしょ。女の子は社会的に弱い立場であることが多いから、教育を受けて、自分に自信をつけるべきじゃない?」
実際にエチオピアの小学校就学率は男子が75%で女子が43%(2001年)である。

女子教育の利点は多く研究されているが、ここでは4点取り上げたい。

第一は出生率の減少である。多くの発展途上国特にサハラ以南アフリカでは、急激な人口増加は深刻な問題となっているため、出生率の減少は課題の一つである。(ちなみにエチオピアの平均出生率は7人である。)ある研究によると、アフリカにおいて7年以上の教育を受けた女性は教育を受けていない女性よりも産む子供の数が少ないことを証明している。この出生率の減少は、多くの教育を受けた女性が晩婚化することに影響している。また、教育を受けた女性は避妊をし、家族計画を行う傾向があるため出生率の減少につながる (Shults 1993)。

第二に、女性が教育を受けることによって、その子供が健康である傾向が証明されている。教育を受けた女性は、教育を受けていない女性よりも子供の健康に気を使う傾向がある。一点目の出生率の減少ともかかわってくるが、実際に、教育を受けた女性は、教育を受けていない女性よりもその子供の幼児死亡率が低い。

そして第三点目は、教育を受けた女性は、その子供、特に娘に対して教育を受けさせるということである。父親よりも母親への教育の方が、娘の教育に対して好影響があることが研究されている(Shults 1993)。 
このような点から、女子教育は、一人一人の子供、さらには国レベルの問題までも左右する影響力があることになる。

さらに、最後に第四点目として、私がユニセフの教育オフィスのヘッドに言われたことを挙げたい。彼女に言われたことは、「女子教育プログラムは、結局は教育の質全体を上げることになるのだから、男の子も結局は利益を受ける」ということである。例えば、女子教育のプログラムには、女子のことを考えたトイレの整備、また家事を手伝う女子のために、午前や夕方、週末などのフレキシブルな授業スケジュールの設定などが挙げられる。もちろん女子のことを考えて行われるプロジェクトだが、トイレの整備も、フレキシブルな授業時間も男子生徒に対しても一緒に行われている。結局は、女子教育は教育の環境が改善され教育の質全体を上げることになり、男子にとっても女子にとっても好影響を与える学習環境が整うことになる。

女子教育に対しての考え方は人により様々だと思うが、エチオピアでのユニセフのインターンを終えて、私が考える女子教育への考えは固まった。

つまり、女子教育は女子のみが利益を受ける教育ではないのだ。女子教育にフォーカスすることで、出生率減少や子供の健康など女子への教育がもたらす利点を促すと共に、女子教育によって教育の質全体を上げることになり、より快適な環境で女子も男子も教育を受けることができるようになると考えられる。これが女子教育に取り組む意義だと感じる。

----------------------------------------------
気がついてみれば、インターンを終えてちょうど1年がたつ。私のコラムも書き終わるまでに1年かかってしまった。インターンで感じたことや学んだことを文章にする機会をいただき、本当に勉強になった。改めて杉原ひろみさんに感謝したい。

私は、5月にアメリカの大学院を無事卒業し、エチオピアにまた戻ってきた。現在は日本大使館で、視点は異なるが、エチオピアの教育中心に仕事をしている。私にとって、去年のユニセフのインターンで経験したこと、考えたことは初心として、いつまでも私の胸の中に残り続けるだろう。

Resource:Schultz, T. Paul. 1993. Returns to Women’s Education. In Women’s Education in Developing Countries: Barriers, Benefits, and Policies. Edited by Elizabeth M. King and M. Ann Hill. A World Bank Book.

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2005.06.13

PLA実施(位田和美)

(前回のコラム「ニーズ調査の先走り」)

2005年2月2日。活動村で初めてきちんとした会議を開き、PLAを実施した。活動村へ通い始めて3ヶ月ほど経ったときのことだ。会議開催前は、果たして村人が来てくれるのか、私のつたない現地語で進行できるのか等々、不安だらけであった。

会議当日、約束の時間に村人のよく集まる木の下へ行ってみると、村長以下、何人かが既に待ってくれていた。そこで、もう少し人が集まるのを待つ間、村長たちに村のプロフィールについて質問することにした。村の人口から始まり、基礎インフラ、村内外の組織の存在等々。話を聞いているうちに、過去に村で行われていた女性グループ活動の問題点・課題も垣間見えてきた。

次に村の地図作り。これは後の地図活用を省みると成功したとは言い難いが、地面にしいた大きな紙の上に石や小枝を置いたりして、自分たちの村に何があるのかを皆で声に出してあれやこれや言い合うこと自体が楽しかったようである。後からやってきた村人たちも、「何の騒ぎだ?」と興味深々で地図作成に参加してくれた。

地図完成後、いよいよ村の課題を話し合ってもらおうと、PLAツールのひとつである「問題の木」を実施した。これは、村人が直面している問題をまず挙げてもらい、次にその原因と結果を分析してもらい、最後にアクションプランを立てる、というものである。結局、この村では(1)女性の重労働と(2)健康、(3)ソーシャルセーフティネットの欠如と3つの問題が挙がった。以下、村人たちが考えた因果関係を紹介する。

(1) 女性の重労働

具体的に、女性たちはどんな仕事に従事しているのか。それは村の生活を見れば一目瞭然であり、予想通り、重労働の代表選手、水の運搬や薪での調理、ミル搗きから成る炊事と畑仕事、子守りが女性たちの主な仕事であることが挙がった。

しかし、さらに面白いことに、女性の重労働の要因の根底に一夫多妻制が挙げられ、議論が白熱したことである。女性たち曰く、一夫多妻制によって一家にたくさん女性がおり、子供の数も多い。したがって、家族の数に比例し、炊事や子守りが大変である。また、男女間で「家族」の単位が異なるため(男性たちはすべての妻子を含む大家族を一単位とする一方、女性たちは自分と自分たちの子供を中心とする家族を一単位と認識しているようである)、女性たちは自分の「家族」を守るために、野菜の種や子供の洋服、しいては日常用品を買うにも畑で一生懸命働かざるを得ず、特に第二夫人以降はその傾向が強いと言う。さらに、女性の権利が尊重されていないために、夫の意向に逆らえず、家族計画を立てることもなく、結果として子だくさんとなり、いつまで経っても仕事が減らない、とのことであった。そして、その重労働の結果として、休む暇もなく、日常的に疲労感があり、ときに健康を害することがある、と分析していた。

この議論をしているとき、女性たちはとても生き生きしていた。普段黙々と働いている彼女たちが、「一夫多妻制は妻の労働分担を図り、ひとりあたりの労働を削減するための措制度である」と言い返す男性陣をもろともせず、村の男性たちの前で上記のように堂々と意見を言い、自分たちの思いのたけを存分に述べていた。

(2) 健康

さて次に(1)の女性の重労働の結果としても挙がった「健康」の問題であるが、この村には簡易保健小屋があり、地域保健普及員も精力的に保健啓発活動や乳幼児体重測定を実施している。実際、村全体の保健分野に対する取り組みが評価され、JICAの母子保健プロジェクトのパイロット村としても指定された村である。そのような村の健康の問題とは何か、ここでも女性たちが積極的に発言してくれた。

曰く、健康問題の原因としては疾病予防の知識はあってもその実践が欠如しており、また、栄養不足、重労働、資金不足と合わせて相乗効果を発揮してしまっているとのことであった。ここでも原因分析の際に一夫多妻制のことが持ち上がり、多くの妻を持つ夫が家計を握っているがために各家族(妻単位)に石鹸や蚊帳などが行き渡らず、また、病気の際にも夫が付き添うか、交通費を出すかしなければ病院にも行けず、もしも夫が遠方に出稼ぎに言っている場合、その帰りを待つこともあると言う。

実際、PLA実施以前にも、村に嘔吐が続く赤ちゃんがおり、母親から「夫にこの子を病院に連れて行くように言ってちょうだい。」と懇願されたことがある。当時は何のことがよくわからず、「どうして自分で頼まないのかな。」と思いつつも、赤ちゃんが心配なので言うだけは言ってみた。すると、旦那さんは「じゃ、今日はもう日も暮れるから、翌朝一番に設備の整っている病院へ連れて行くか。」とすぐさま承諾してくれた。その後、病状回復した赤ちゃんの母親から予想以上に感謝された、という経験がある。

上記事例に見られるように、この村ではPLA実施時のような会議等での女性の発言権は比較的あると言えるが、家庭内では必ずしもそうでないということがわかる。ここでも村人の問題分析力に感心すると同時に、問題の奥深さ、問題解決の複雑さに気づかされた。

(3) ソーシャルセーフティネットの欠如

最後に、ソーシャルセーフティネットの欠如の問題であるが、(1)(2)の問題とも相互に関連し、男女ともに衣食住の不足を問題であると捉えていた。しかし、この問題に関しては、議論が展開されるに従い、だんだんと「ショッピングリスト」化し、原因結果分析どころではなくなってきたため、途中で打ち切った。

以上、3つの問題が挙がり、村人たちの手で原因結果分析もした。しかしながら、「では、これからどのような活動をするか」と言ったときに、やはり資金源がネックとなり、結局費用も手間もかからない石鹸作りから始めることとなった。今思えば、マイクロクレジット制度の紹介等もして、もっと村人に選択肢を持ってもらうべきだったと反省しているが、当時は始めての会議をどう収拾しようか考えるのに精一杯であった。このように、数々の自己課題が明らかになった会議ではあったが、会議終了時には満足気でさえあった村の女性たちを見るにつけ、(その後の活動につながるか否かを問わず)PLAを実施し、村の男女が一同に介した場で、女性たちが発言の機会が持てたこと自体とても価値のあることに思えた。今後は、これを自己満足に終わらせないように、いかに活動を展開していくか。試行錯誤は果てしなく続くのであった。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2005.06.06

女子教育を阻むもの(2):女子誘拐への対策(利根川佳子)

(前回のコラム「女子教育を阻むもの(1):早婚、女子誘拐」)

女子誘拐がなぜ行われているかについては、前回のコラムで書いた。今回は、女子誘拐と教育について更に言及したい。

女子誘拐は、エチオピアの多くの女性の仕事である水汲みの行き帰りに行われることが多い。長いと6時間かけて水汲みに行く地域もあるという。同様に、エチオピアの多くの学校は、家から離れているため、毎日数時間かけて学校へいくことも珍しくない。学校の行き帰りの間で、誘拐されることが良くあるのだ。また、学校で男女が一緒に勉強することにより、男女の交流が増えるのも、男子が女子に目をつけやすくなるため女子誘拐の原因と言われる場合もある。そのため、親は女の子を学校に行かせるのを嫌がる。それも、女子教育を阻んでいる。

その一方で、学校で男女が交流することで、女の子も合意の下、女子の親に対して結婚を納得させるための「合意女子誘拐」もおこっているらしい。この「誘拐」は恋愛に基づくので健全だというエチオピア人の意見も聞いたが、もし女の子が若く、教育の機会を失っているとしたら、良い方向だとは思えない。どちらにしても、この「合意女子誘拐」は、Dowryの金額が減ってしまうという点や自分の知らないところで娘が結婚相手を決めるという点から、親が娘を学校に行かせるのを拒む原因になるだろう。

女子教育を阻む女子誘拐に対する学校の対策を紹介する。アワサ(Awasa)郡にあるこの学校は、女子教育に比較的成功しており、ユニセフのターゲット校ではない。この学校は珍しく校長先生が女性で、個人的にも彼女が女子教育を強く推進している。その校長先生が女子誘拐に対してとった行動は、その地域のリーダーとその地域の宗教リーダーに対して、女子誘拐がもたらす影響について語り、働きかけ、コミュニティを巻き込んで、女子誘拐を止める努力をしている。伝統的に女子誘拐は周知の事実として行われており、コミュニティ全体がそれをよしとしていた。コミュニティリーダーを中心にその地域全体で考え方が変われば、女子誘拐もなくなるかもしれない。実際にその学校ではコミュニティリーダーを巻き込んで、誘拐した男性側の家に交渉に行き、誘拐された女の子を取り戻している。その後、誘拐から救われた女の子が高校にまで行ったと校長先生は誇らしく私に語ってくれた。また、その校長先生は、学校の生徒、コミュニティの前で誘拐から救われた女子に誘拐の経験談を話させることで、女子誘拐に対する認識を変えていったのである。「去年は誘拐された生徒はゼロだったけど、今年は1人誘拐されたのよ」と厳しい現実と戦う女校長先生の姿には圧倒された。確実に変化は起こっている。

この学校が地方都市に近く、コミュニティのマインドも比較的柔軟であることも成功の要因かもしれない。だが、コミュニティによる理解は大変重要だ。この学校が成功しているのは、コミュニティの理解を求めるに当たり、外部の人間ではなく、校長先生を中心にそのコミュニティに深く関わる人が行動を起こしたからだろう。

また、このような校長先生こそ、勉強する女子にとってのモデルとなることだろう。
エチオピア全体の小学校の先生の内、31%が女性である。私が訪問した村では、多くの学校で女性の教師は1人であった。女性の先生が増えることも、女子教育促進の大きな要因であろう。

女の子への教育の阻害要因は、経済的な点もあるが、それよりも社会文化的な点が大きく影響している。つまり、人々の前提となる考え方の問題となるので、道のりは長いが啓蒙活動を通じて、自分たちの前提となる考え方に疑問をもってもらうことからはじめることが、結果的には一番重要なものとなるのだと思った。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.05.30

津波被災地復興支援の現場から(3)(里見陽子)

(前回のコラム「津波被災地復興支援の現場から(2)」)

スリランカ東部のアンパラといえば、これまで国内外からあまり注目されていなかった地域であるが、現在この地域に出入りしている援助関係者はものすごい数に及ぶ。国連をはじめとする国際機関、二国間援助機関、国際NGO、ローカルNGO、そして個人で活動する人々まで。あちこちに事務所が設置され、団体名を掲げて走る車も多い。避難民キャンプの入り口や住宅・学校の建設予定地などには、「Funded by ~」とサインボードが掲げられる。

アンパラ県知事が主催する国際NGO・ドナー調整会議は、県庁にて隔週で開かれている。3月初めの時点で、この会議への出席者が一時と比べずいぶん減ってきている、と県知事はいくぶん淋しそうに話していたが、それでも大きな円卓を囲んで二重の輪ができるくらいの出席者を得て、今もこの会議は続けられている。また県(district)レベル以外にも、地区(division)ごとに地区事務局(divisional secretariat)が主催する形で時折会合が開かれ、情報や意見交換を行う。

このように多数の援助関係者が集中する災害被災地の現場において、ドナー調整は非常に重要である。その際、調整の「主体」はその国(例えばスリランカ)の政府機関または地元コミュニティであるのが理想だ。外部のあらゆる援助団体・機関がそれぞれに特定の対象地域で特定のミッションを達成しようとして単独に活動していたのでは、支援活動全体に非効率や無駄が生じるだけでなく、被災地域住民たちが本来持っている「自らの力で生きる力」を奪ってしまうことになる。

私が現場で実際に見た中にも、例えば支援物資として配給された運動靴や通学かばんを一人の子どもが3つも4つも持っていたり、一世帯で使い切れないくらいの小麦粉が家庭に配られていたり、という実態があった。その一方ですぐ隣のコミュニティでは、瓦礫の中を裸足で歩き、破れたビニール袋にノートや鉛筆を入れて通学してくる子どもがいるのだ。誰がどこでどんな活動をしているか援助関係者間で互いに情報共有がされていないと、支援が最も必要とされているところに届かないという非効率や無駄、そして非公平性を生む。

また特に危険なのは、住民たちの間に援助依存の体質が現出することである。ある時フィールドの仕事でローカルコンサルタントと一緒に歩いて学校の敷地に入ろうとすると、隣接する避難民キャンプから出てきた男性に現地語で声をかけられた。
「今日は何をくれるんだ?」
彼は毎日こうして代わる代わるやってくる救援物資を待っているのだろうか。経験豊富な同僚のスリランカ人コンサルタントも、これにはショックを受けていたようだ。ひとたび援助依存に陥ると、自助努力の意欲が失われ、何でも外部からの物資供給に頼るようになってしまう。働くことに意味を見出せない。これでは我々が目指す「持続的・自立的発展」と全く反対の状況である。

津波で家族や財産を何もかも失ってしまい、どんなに貧しく困難な状況でも、住民自身が持っている力やリソース、ポテンシャルが必ず何かあるはず。そこで生活してきた中で蓄積された知恵やコミュニティのつながり、いわゆる「ソーシャル・キャピタル」と呼ばれるものであろうか。緊急援助に続く復興プロセスは、ここからスタートするべきだと思う。つまり、あれが無い、これが無い、ではなく、何が「ある」か。

本当に現場のニーズにあったものは何か、現場の主体とドナーコミュニティとが一緒になって情報共有し、意見交換できるシステムが重要だと考える。援助は競争ではない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.05.02

ニーズ調査の先走り(位田和美)

 百聞は一見に如かず。配属先(地方行政組織)とのPLAに対する見解の相違が判明した後、「基本は村の現実」とのスタンスから村へ足を運び、村人の生活をこれまで以上に観察しようと努めた。さらに、私自身が目星をつけている村へ行く傍ら、他の援助団体の活動も勉強させてもらおうと、セネガル政府が実施している社会開発プロジェクトの評価ワークショップにも同行させてもらった。しかし、このような政府プロジェクトが開く集会でさえも参加者はまばら。参加している村人も疲れ切っていて、発言者も少ない。やはり農繁期。村人の優先事項は当然のことながら畑仕事である。無理もない。

 他方、配属先の上司も地方巡回や会議で忙しいらしく、事務所へ行っても不在であることが多い。これでは、PLAを実施しようにも、村人・配属先双方の日程が合致することはなく、話にならない。そして、私自身は細々と時間が空いていそうな人を見つけてはニーズ調査を始め、情報収集をしてはみたが、どうも村人側に積極的な姿勢が見られず、私自身の自己満足に陥っている気がしてならない。やはり時期が悪いのか、はたまたやり方が悪いのか。

 そこで、思い切って活動対象とやり方を変えてみた。ときに時期は10月始め。まもなくラマダン(断食月)に入るものの、学校のバカンスも終わり、新学期が始まる頃。活動対象は農作業で忙しい村人ではなく、小さいけれども都市に住む学校関係者に、「○○のような活動をしてみませんか」という提案型で進めていった。
具体的には、任地全体で“トレンド”のようになっているエイズ対策を、地域の最高教育機関である中学校を舞台に展開しようと試みた。計画としては、12月1日の「世界エイズデー」を目標に、中学生によるエイズ紙芝居の上映と、紙芝居にまつわるエイズ講座を開催しようとした。そこで校長先生から中学校教諭に話をしてもらい、生徒から参加希望者を募ってもらった。

 私の任地はセネガルの首都ダカールとマリの首都バマコを結ぶ大きな国道沿いであり、性感染症の患者も多い。自然、数年前からエイズ予防への関心が高まっており、何かの折につけてはエイズ予防の啓発活動が行われている。しかしながら、それでいて一過性のイベント的活動から脱しきれず、人々の間でのエイズに関する知識が充分備わっているとは言えない。このような状況下において、中学校でもエイズ予防活動に関心のある生徒は予想以上に多かった。企画内容としては成功である。問題は時期と進め方。

 私が企画したエイズ紙芝居とは、日本のNGOジョイセフから寄贈していただいたものであり、脚本は英語で書かれている。上映にあたっては、少なくともセネガルの公用語であるフランス語翻訳作業が必要になってくる。だからこそ私は地域の最高教育機関である中学校に目をつけ、中学校の英語教諭の協力を仰ぎながら、中学生を中心に進めていこうとした。しかし、後になってわかったのであるが、この翻訳作業は中学生にとってあまりに背伸びしすぎたものであった。さらには、企画段階では賛成し、協力すると言ってくれていた中学校教諭も、実践段階になると勤務時間外での活動に不満を持ち始め、ついにはラマダンに突入し、来なくなってしまった。こうして中学校教諭の協力がまったく得られないまま、自分の能力以上の作業を抱えてしまった中学生は路頭に迷い、次々とギブアップしていった。そして、12月1日を待たずして、ついに計画は頓挫してしまった。

 今思うと、エイズ予防に関心のある生徒自体は多かったのであるから、紙芝居上映を前提にするのではなく、「エイズ予防活動として」生徒自身に何かしたいのかを問いかけるべきであった。また、中学校教諭とのコミュニケーションも充分であったとは言えず、日程・進め方・内容等もっと一緒に検討すべきであった。

 つまり、今回は「私のやりたいこと」を前面に押し出してしまい、生徒や中学校教諭からのニーズに耳を傾ける努力が欠けていた。ニーズの把握・仮説検証までは良かったのだが、その後企画に対象者がついて来ているか、それを知るためのコミュニケーションが図れなかったために、「ニーズ調査の先走り」となってしまったのである。

 こうして私の模索はとどまることを知らず、その後の活動への試行錯誤は続くのである。

| | Comments (3) | TrackBack (2)

2005.04.25

津波被災地復興支援の現場から(2)(里見陽子)

スリランカでは、4月13日・14日がシンハラ・タミル正月の祝日だった。日本人にとって重要な1月1日の「元旦」はこの国では休日でもなく、人々は普通に仕事にでかけるのだが、4月のお正月は盛大なホリデーシーズンである。家族や親戚が集まってご馳走をいただいたり、新しい服などの贈り物をしたりする。それから占星で縁起がいいとされる「大安」の日(auspicious day)を待って、仕事本格再開となるのである。

私はこのシンハラ・タミル正月をはさんで2週間ほど現場を離れていたが、戻ってきてみると半月前より格段に暑くなっている。4月・5月は一年で最も暑い時期。日中の気温はあえて知らないほうがいいだろうと思っているのだが、外はいかにも灼熱の日差しという感じで、体の中まで煮え立ちそうだ。いつもなら涼しい木陰や室内も、暑い。これから2ヶ月は熱との闘いになるかもしれない。

お正月休みが明けると、学校では2学期が始まる。先学期のスタートは津波被害のため場所によっては1~2ヶ月くらい遅れたが、2学期は被災地でも他の地域と同じスケジュールで開始することができた。

沿岸部の被災校(全壊・半壊)に通っていた生徒は、被害を受けなかった近隣の学校に「疎開」している。受入れ校の生徒が午前授業(午前8時~午後12時)、被災校の生徒が午後授業(午後1時~午後5時)、という2部制で授業が行われている。通常の授業時間は午前8時から午後2時であるから、受入れ校・被災校ともに授業時間が毎日2時間ずつ短縮されてしまう。

津波で崩壊した学校校舎の再建計画は教育省が中心となって進めており、現在までに大部分の学校について、誰(ドナー、NGO等)が建てるのか決まっている。(教育省ホームページhttp://www.moe.gov.lk/images/donor.htm

しかし問題なのは土地である。政府は海岸から200メートル以内における一切の建物建設を禁止したため、その「バッファーゾーン」に位置する学校は200メートル以上内陸の別の場所に移転しなければならない。ところが東部の沿岸地域、特にカルムナイ周辺は人口密度がかなり高くなっており、政府所有の土地がないため、学校の移転先がないのである。私有地は驚くほど価格がつりあがっているし、ひとつの区画に何人もの所有者がいたりして、学校移転のための土地取得が非常に困難な状況である。

移転先の目処が立っていないし、仮に土地が見つかったとしても校舎建設には時間がかかるので、2部制による授業体制は今後2年くらい続くものと思われた。ところが、疎開していた被災校は、私有地や公共広場などとりあえず仮設教室に使えそうな敷地を自力で見つけて、次々と疎開先を出ていっているのが現状だ。津波で流れてきたのであろう瓦礫やゴミが山と積まれたグラウンドや、建設途中で壁や天井がまだできていない建物など、およそ子供たちが勉強するにはふさわしくないような場所も使われている。

そこまでして被災校が独自の場所を確保したい理由は、午後授業が習慣にないため不都合であること(昼食の時間に合わない、午後は暑さが厳しい、など)と、やはり他校の施設を使って授業をするのはやりにくい、という点があげられる。正直、これは予想外のことだった。

被災地の状況は非常に流動的で日ごとに変化していくため、柔軟な対応が必要である。多数のドナーやNGOが活動している中、無駄や取りこぼしのないよう支援していくことは、大きなチャレンジだ。変わりゆく環境にあって、何が必要とされているのか、その優先的ニーズが的確に取り上げられるよう、サポートしていきたいと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.04.18

セネガル地方政府にとってのPLA(位田和美)

ローカルNGOによるPLA研修後任地へ戻った私は希望に満ち溢れていた。ときに時期は9月半ば。まだまだ農作業の忙しいときである。それでも、PLAを実践できれば、という想いからまずは配属先である農村開発普及局(地方行政機関)の上司に相談し、アドバイスを仰いだ。すると、この上司こそ自称「PLAの申し子」、PLAをよく学び、実践もしてきたと言うではないか。実際に上司の前の任地で行ったPLA報告書も見せてもらった。これは願ったり叶ったり。・・・と思ったのも束の間。よくよく話を聞いてみると、上司の言うPLAとは、上司自身はもとより、多くの開発関係者を村へ呼び、上司たちの日程に合わせて村人を集め、5日間程泊り込んで実施する非常に大々的なものであり、それ以外はPLAとは呼ばない!というほど決まりきったものであった。しかも、そのコーディネート(資金調達含む)はすべて配属先に所属するボランティアである私の役割であると言う。

上司がPLAを知っていたこと、またPLAの支持者であることを知ることができたことは何よりの収穫であった。しかし、問題は私が思い描いていたPLA像との乖離である。私にとってPLAとは、あくまで村人の利益中心であり、日常の生活において村人の負担にならない範囲の日程で、かつ村人の率直な意見が出るような環境下での情報収集・意見交換を通し、お互いに気づき、学び合うというものである。他方、配属先にとってのPLAとは、まずは「配属先の成果」としてのPLA実施という事実を作り上げることであり、村人への利益還元は二の次である。もしも村人への利益還元を図るとすれば、PLAによるニーズ調査後、援助機関による開発プロジェクト導入によって図るものである、との認識でいる。しかも、その開発プロジェクトの導入交渉もJICAのボランティアである私に期待している面が大きい。

これら配属先の意向を知ったとき、私は非常に困ってしまった。当時、PLA実施のための資金調達源も、その後の開発プロジェクトを導入する見込みもなく、また何よりも、そもそものPLAに対する認識が真っ向から食い違っている状況下で、私自身どのように対応していいのか図りかねたのである。しかし、私のセネガル派遣は配属先からの要請があってこそ。配属先上司の配属先の利益を優先した考えも、組織としては当然のことであるため、理解はできる。そして考えれば考えるほど、私の考えは所詮は外部者として「村人の利益」という理想を追求しすぎており、現実を見据えることができてはいないのではないか。もしかすると、配属先上司の言うように、多少のニーズ調査の純粋性が損なわれようと、結局はどんな分野であれ開発プロジェクトが村に導入され、社会経済インフラが整っていくことこそが村人にとっての利益ではないか、と思い悩むようになった。

そこで、PLA実施に関しては3通りの可能性を検討した。①配属先の言う通り大々的に行う方法。②私が考える村人の都合・既存リソース・利益を最優先した方法。③モデル村を設定し、モデル村では①の方法で実施し、同時にモデル村でのPLA実施時に招待した他村のファシリテーターを養成。養成したファシリテーターが②の方法で実施する方法。しかし、考えていても何も始まらない!配属先との会話を進めつつも、まずは村へ行き、村人の現状を改めて見てみることにした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.04.04

女子教育を阻むもの(1):早婚、女子誘拐(利根川佳子)

(前回のコラム:ユニセフーエチオピアの組織について:部署間でのコラボレーション)

インターンでのアサインメントの一つは、ユニセフのGirls Education Initiative(GEI)の対象となっている学校の現状調査であった。実際に学校、地方役場の教育オフィスを訪問し、現場を見ることができたため、インターンシップの中で一番勉強になり、また一生忘れることができない経験となった。訪問した地域は、エチオピアの南部州(SNNPR:Southern Nations and Nationalities and Peoples Regional states)で、2週間かけて様々な村をまわった。

GEIは、学校の中でも男女の就学率のギャップが一番開いている学校を対象としている。そのため、当然ながら、学校を訪れると女の子は圧倒的に少ない。ダラ(Dara)郡のある学校では、年齢層はバラバラだが,1年生に男子が102人、女子が20人登録しており(この時点で既に男女の差は明らかだが)、4年生になると男子は34人、女子は3人となる。更に私が訪問した際には、4年生の女の子3人のうち、2人は結婚することになり、もう学校へ来ていないとのこと。つまり4年生の女の子は、たった一人しかいなかった。クラスを実際に見学したときには、彼女は一番後ろの席に座っており、1人でさびしそうだった。彼女にはぜひがんばって学校での勉強を続けてもらいたい。

この学校の女の子の状況からも見られるようにエチオピアでの女子教育の障害として、早婚が挙げられる。エチオピアでは、早い場合7,8才で結婚する場合も少なくない。若くして結婚することで、学校へ行くことが阻まれる。運良く夫が、妻が学校へ行くのを許可したとしても、妊娠してしまうとそこでストップ。早婚が女子教育を阻んでいる。

また、早婚を導く女子誘拐(abduction)もエチオピアでの女の子の教育を阻害している。女子誘拐は、結婚相手を探している男性側の家族によって行われる。なぜ誘拐するのか。エチオピアでは、伝統的に男性が結婚する女性の家族にDowry(結納金)を支払うことになっている。このDowryは、処女の女性とそうでない女性で値段が変わるのだ。処女であるとDowryは約400USドル、そうでないと約50USドルまで下がる。そのため、男性側の家族は、気に入った女の子を見つけると、誘拐し、レイプする。ひどいときには、妊娠するまでレイプする。そして、その女の子の家族にその事実を伝え、安くなった結納金を払い、結婚するのだ。伝統的には、処女でない女の子は社会的に受け入れられず、なかなか結婚できない。また、レイプされた女の子はその家の「恥」となる。女子側の家族は、その誘拐した男性側の家族の要求をのまざるを得ない。誘拐された女の子は、精神的にも肉体的にも傷つく。また、レイプによるHIV/AIDSの感染もありえる。エチオピアの法律で、女子誘拐は禁止されているが、実質的効果はほとんどないようだ。ユニセフのあるレポートによるとエチオピアの結婚の70%は女子誘拐によって行われているとある。

では、女子誘拐に対して、どのような行動がとれるのだろうか。次回のコラムで、更に女子誘拐について言及する。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2005.03.20

津波被災地復興支援の現場から(1)(里見陽子)

前回のコラムを書いた直後に、またスリランカに行くこととなった。急に決まってバタバタと出てきた目的は、昨年8月まで1年間全国を対象に実施した教育改善の活動を、今度は津波被災地で実施することである。東部州アンパラ県の沿岸、カルムナイ地区で津波により全壊・半壊した学校がその対象となった。ということで、前回少しばかり思わせぶりな終わり方をしてしまい申し訳ないと思いつつ、被災地での様子を書くことにする。

私がスリランカを離れて日本に帰国していたのは、結局2ヵ月半くらいだったから、コロンボに戻ってきても懐かしいと思うこともなく、普通に元の生活に戻ったような気分でいた。が、アンパラに入ると話は別だ。コロンボから車で8時間。いかにも、遠い。

今回はプロジェクト実施対象がアンパラ限定なので、私もここに住み着いて業務に従事している。地方回りの旅ガラスだった前回の仕事と違い、対象地域は範囲限定されている分移動は少なく、田舎生活にどっぷり浸ることとなる。しかし、これはこれでなかなか良いものである。住めば都とはこのことだ。

津波による死傷者数で見て被害の最も大きかった東部地域は、今回の津波だけでなく、2002年まで20年近く続いた内戦の影響も受けている。シンハラ人が70%を占めるスリランカの中でも、東部はタミル人やムスリムという少数派の人々が住んでいる地域であり、これまでも他の地域と比べ政府や外国からの支援が届いていなかったのが東部である。

さらに、アンパラの特徴として、タミル人とムスリムのコミュニティが細かい層のように交互しているという点があげられる。他の地域では比較的大きく居住地域が別れているのに対して、ここでは村落ごとに民族や宗教が異なるため、それだけ村落間の緊張が高く、小競り合いが多い。

サーフィンスポットとして有名なアルガムベイなどを除けば、外国人観光客が集まるようなリゾートもなく、小さな田舎町がいくつかあるだけのアンパラ県だが、津波を機に多くの援助関係者が多数出入りするようになり、ここは今ちょっとした”津波景気”のさなかにある。ゲストハウスなんて、平気で普段の5~10倍くらいの料金をとっても常に満室状態だし、ドライバーや事務職など人件費含め、全体的に物価がかなり高騰している。

沿岸の被災地カルムナイの町を歩いていると、人々の顔は思いのほか明るい。しかし、人々の心の中では津波によってできた大きな傷がまだ癒えていない。地震や津波の知識がなかっただけでなく、あの日、12月26日の朝も人々は地震の揺れを全く感じることがなかった。突然襲ってきた津波が、町を家を人を呑みこんだのだ。

”Sea is coming! Sea is coming!(海が来る!)”

今でも、また津波が来るとの噂が流れて町がパニックになることはしばしばだ。数日前、津波がきたと聞いて家を飛び出した少年が、逃げようと必死で走って道路に出た瞬間、トラックに轢かれて亡くなるという痛ましい事故があった。ショックで言葉が出ない。津波の水を飲んだ人は半年以内に死んでしまう、などという噂を信じて苦しむ子どもたちもいる。インフラの復旧はどんどん進んでいるが、心理的・精神的な面でのサポートが急務であると感じる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.31

ユニセフーエチオピアの組織について:部署間でのコラボレーション(利根川佳子)

インターン第一日目は、ユニセフ・エチオピア事務所の各セクション・マネージャーとのブリーフィングを行った。今回は、そのブリーフィングに基づいてユニセフ・エチオピア事務所について感じたことを書きたいと思う。

ユニセフ・エチオピア事務所は、およそ100人の職員を抱えており、8割以上はエチオピア人で占められ、男女比はだいたい半々である。エチオピア人の多さに驚いたが、現地事務所であるだけに理想的な姿だと感じた。また、秘書職がほとんどであるが、女性が多いという印象を受けた。一方で、エチオピアの南部州のユニセフ・カントリーオフィスでは、働いている人のほとんどがエチオピア人の男性であった。
具体的なプロジェクトを行っている部署は以下になる。

- Gender and Child Protect Section
- Early Warning Disaster Preparedness Section
- Water and Sanitation Section
- Health and Nutrition Section
- HIV Section
- Education Section

ブリーフィングでは各セクションでの中心のプロジェクト、そして教育の持つ影響力、重要性が中心となる話題であった。教育に絡めた各セクションマネージャーの論点はまとめると以下のようである。

● Gender and Child Protect Section

- 女性のエンパワメントの手段としての教育の重要性。
- FGM(女子割礼)のようなHarmful Traditionを防ぐ方法としての女性への教育の重要性。

● Early Warning Disaster Preparedness Section
- Emergencyでは教育のプライオリティが低い場合が多いという現実から、Emergencyの中での子供の教育の重要性。

● Water and Sanitation Section
- 女性の仕事である水汲みが女子教育を妨げているという事実から水施設の普及の重要性。
- 学校施設の中での水設備の重要性。(水施設があることにより親が子供を学校に行かせることへのインセンティブとなる。)

● Health and Nutrition Section
- 教育によって女性の早婚や無計画な多産が減り、母親が子供の健康に気を遣うという事実に基づく教育の重要性。

● HIV Section
- HIVを防ぐための学校でのHIV教育の重要性。
- 教育を受けている人はHIVを防ぐ可能性が高いという事実に基づく教育の重要性。

私が女子教育プログラムでのインターンであったため、どの部署の方も教育に近づけて話そうとしてくれたのかもしれないが、ブリーフィングを通じて「どの部署も教育が大切だと認識しているのだな」と改めて感じた。

しかしながら、「Education Sectionと一緒に何か仕事をしているのですか」と聞いたところ、どの部署もしていないという。驚いたことに、私が聞く限り、どの部署も他の部署と共同の仕事がなかった。インターン中も、それぞれの部署は完全に独立しているという印象を受けた。プロジェクトごとに資金が出るために部署を超えての仕事が難しいというのが一つの原因かもしれない。

また、ブリーフィングの中で驚いたことは、教育という点で他の部署で関係づけできそうなプロジェクトを行っているにも関わらず、他の部署のプロジェクトについてもあまり知らない様子であったことである。定期的に各部署のマネージャーが報告会を開いていたから、お互い全く知らないということはないと思うが、他の部署の仕事まで把握する余裕がないのかもしれない。また、もしかして、知っていてもお互い言及せず、干渉せずに仕事しているのかもしれない。このような状況に大変驚いた。

水の部署では、他の国際機関とNGOと一緒に学校で給水施設を整えて、より多くの子供へ教育の機会を与えるというプロジェクトを行っていた。このプロジェクトに教育の部署の人たちは関わっていない。教育の部署もうまく巻き込めば、よりよいアプローチができるのではないかと感じた。

また、私の滞在中に、教育の部署も、NGOとのプロジェクトを始めつつあった。NGOの視点を加えて、より包括的にアプローチするためだ。

もちろん、他の援助機関とのコラボレーションは重要だ。しかしながら、ユニセフ・エチオピア事務所内には色々な分野を扱っている部署があるのだから、その中でのコラボレーションが進めば、それだけでもすでにより包括的なアプローチが可能ではないかと思う。多くの援助機関では、援助協調やセクターワイドアプローチ等が注目され、各援助機関が援助の重複を避け、お互い協力して効果的に援助を進める方向性がでてきている。ユニセフのような大きな機関になると、一つの機関においても援助協調が重要だと思った。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

2005.01.24

理数科教育パイロットプロジェクトの開始(里見陽子)

ジトッと湿気がへばりつくような蒸し暑さ。コロンボ郊外の空港に降り立った瞬間、そんな熱帯の空気に取り囲まれ、圧倒されそうになりながら「南国」を実感した。モンスーンの時期でもあり日差しは特段強くも感じられなかったが、蒸し暑い。DCを出た日も暑かったが、それとは違う、熱帯の匂いがした。
「いつもこんな感じですか?」
空港まで迎えに来てくださった調査団員の方に、思わず聞いてしまった。

前回のコラムでは、留学先のアメリカ・ワシントンDCから開発の現場であるスリランカに行くことになったいきさつをお話した。そして私がスリランカに来た目的は、「JICA初中等理数科分野教育マスタープラン開発調査」に従事するためである。これは、その名の示すとおり開発調査という技術協力のスキームで実施されている開発計画調査(マスタープラン:M/P)である。最近では、開発調査に実証調査を含む形で行われることが多い。つまり、マスタープランの素案を元にパイロットベースで実証事業を実施・モニタリング・評価し、マスタープランで提案する内容や方向性の適用・普及可能性を検証すると同時に、現場での経験から学んだことをマスタープランに反映させることを目的としている。スリランカの案件もこの形で実施され、私はその実証事業(パイロットプロジェクト)の担当コーディネイターとして、調査に参加した。教育省のオフィサーがカウンターパート(C/P)チームとなり、我々調査団と一緒に活動した。

学校から提出されたプロポーザルを元に、最終的に25校が「パイロット校」として選ばれた。パイロットプロジェクト開始前に着任した私にはまず、まもなく開催される事前ワークショップの準備そして実施という仕事があった。5日間にわたるこのワークショップでは、パイロット校の校長や教員を招いて我々調査団・C/Pチームと共にプロポーザルの仕上げを行い、レポートの書き方や予算管理の方法を確認したうえで、パイロットプロジェクト実施に係る各校との契約となる。

学校側が準備してきたプロポーザルは、C/Pによる英訳を経て我々の元に来るのだが、プロジェクトの必要性、妥当性、対象、具体的活動、期待される成果、指標、そして予算までを含む大がかりなものである。もちろん内容的にはまだまだ改善の余地あるものだが、これを準備するために学校の先生方や保護者たちの相当な苦労と努力があったものと伺える。そもそもスリランカの教育制度では、教育活動の内容はもちろんのこと、指導法から教員研修、学校施設や備品に至るあらゆる面で教育省からの指示に従うのみであるのが通常であり、先生たちが自ら計画を立てて教育の向上のために物事を進めるというのは全く初めての試みなのである。

それだけに、パイロットプロジェクトを「勝ち取った」25校の先生たちは皆嬉しそうだ。ワークショップを終え、自分たちの学校を良くするために頑張ろうと互いに励ましあいながら、晴れ晴れとした顔でそれぞれの学校に帰って行った。もちろん、学校を良くするというのは「言うが易し…」であり、この後1年間、汗をかきながらあれやこれやと様々な形での投入をしていくことになる。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2005.01.10

ローカルNGOによるPLA研修(位田和美)

雨季中、農作業に勤しむ住民に圧倒され、村落開発に挑戦する自信を失い、悶々としていたとき。私の葛藤を見透かしたかのように、JICAセネガル事務所企画の現地技術補完研修が実施された。本研修は、村落開発に関して豊富な経験を有するローカルNGO、ENDA3Dの指導の下でのPLAの実践学習を目的とし、研修中に得たアイデアを任地での活動に活かそうという意図から企画・実施されたものである。「PLAの実践学習」とは!しかも、セネガルローカルの老舗NGOの手法を実地体験できるとは!まさしく私が欲していた研修内容であり、事前学習から相当の心意気を持って臨んだ。

かくして5日間の研修は、(1)PLAツール概要確認、(2)PLAツール実践、(3)ENDA3DによるPLA実践見学、(4)村の3ヵ年計画立案、の4本立てで、非常に効率よく実施された。また、研修期間を通し、ENDA3Dの24時間体制および現地ファシリテータ(近郊村在住の村落開発普及員)のマンツーマン指導により、きめ細かなサポート体制がしかれ、私自身が抱いていた疑問や課題にも懇切丁寧に応じてくれた。

PLA実践前は、現地語もままならず、社会的背景の異なる外部者である自分が住民にどのように接したらよいのか、住民の前で「話をする」という事自体に全く自信がなかった。しかしながら、いざ腹をくくってやってみると、住民はこの「何者かよくわからないお客さん」に対し辛抱強く応えてくれ、むしろ、片言の現地語に四苦八苦している「外国人」との会話を楽しんでくれている様子さえ伺えた。研修実施時は雨季の真っ最中であり、また、そのうちの1日は定期市の日と重なり、住民が集まるかどうか懸念されたが、女性グループ代表の言葉を借りれば、「お客さんが来ているのに、集会に行かない訳にはいかない」と、自分の予定を変更してまでも参加してくれる住民が少なくなかった。
他方、PLAツール実践時には、ニーズとウォンツの分析が甘く、幾度も失敗を重ね、納得のいく結果を残すことはできなかった。それでも、自分なりにファシリテーション方法を試行錯誤する過程で学んだものは多く、PLA理念の現地適用度の高さ、PLAの技術面での奥深さを再認識し、また、村落開発における私自身の課題を明確にすることができた。

さらに、何よりも昼夜を通してENDA3Dや現地ファシリテータと様々な議論を交わし、彼らの仕事にかける熱意やポリシーを垣間見ることができたのは、本研修の最大の成果である。彼らは「今のセネガルは経済的には決して豊かだとは言えない状況にある。けれど、後10年、今の世代の人たちが頑張って国の基盤を築いていくことができたら、必ず良い未来が開けると思う」と言う。これを聞いたとき、私もこのような希望溢れる国で、彼らや住民と一緒に、少しずつ、ゆっくりと国の基盤作りに参加していきたいという想いを新たにすることができた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.01.03

スリランカに行くことになったいきさつ(里見陽子)

このコラムでは、2003年7月から2004年12月までスリランカで教育開発のプロジェクトに携わった経験をお話したいと思います。まず冒頭、2004年12月26日に発生したスマトラ島沖地震津波による被災者とそのご家族の方々へ心よりお見舞い申し上げます。また、状況の厳しい被災地で救援活動に携わる全ての方々に対し、心よりの応援と祈念を送ります。今回被害はインド洋周辺を中心とする12カ国にも及び、スリランカも死者2万5千人以上、避難生活者80万人という未曾有の国難に遭遇しています。私にとってスリランカは特によく見知った土地であるだけに毎日気が気でならない思いでいますが、「がんばれ、スリランカ!」の気持ちをこめてコラムをお送りしたいと思います。

大学院を修了した2003年春。卒業式のため日本から来米していた両親との旅行から戻り、さてこれからいよいよ本格的に就職活動だ!と気合いを入れていた(?)頃、スリランカにいるという一人の日本人コンサルタントの方からメールを受け取った。タイトルは「JICAスリランカ理数科教育マスタープランの人材募集」。ワシントンDC開発フォーラムの傘下で機会をいただき私がフォーカルポイントを務めていた「紛争と開発ネットワーク」メンバーの方が私のことを紹介してくださったそうだ。調査の一環で実施されるパイロットプロジェクトの現地コーディネイターを募集しているというのがメールの内容だった。

面白そうだ。何と言っても「スリランカ」である。2002年2月に政府と反政府組織LTTEとの間で和平協定が締結され、復興支援・平和構築といった観点から研究対象として取り上げてきた国。また「紛争と開発ネットワーク」でも、トピックのひとつでスリランカにおける紛争と開発への取り組みをウェブサイト上にまとめるなど、注目していた国である。とにかくスリランカが私の関心国リストのトップにあったことは間違いない。

早速そのコンサルタントの方に返信すると、すぐにプロジェクトの資料が送られてきた。それからメールや電話のやり取りを経て採用が決まり、約3週間後にはパイロットプロジェクト・コーディネイターとして着任することになる。

フィールドでの経験を積むことは私にとって願ってもないチャンスではあったが、全く迷いがなかったわけではない。当時私はDCに本部のある開発NGOでリサーチアシスタントをしていた。OPT(F1学生ビザ保持者が卒業後に米国内で実務経験を得るための滞在許可)待ち身分のため無給で週3日働いていたが、そのポジション自体は有給であり、フルタイムの仕事を探しつつしばらくはそこで経験を積もうと考えていた。OPTは今しかチャンスのないもので、且つそれまでの就職活動の手ごたえから、私にとってOPT無しにアメリカで開発関係の団体に就職するのは極めて困難であろうことが予想できた。(OPTが無ければ雇用者が高額の費用をかけ就労ビザをスポンサーしなければならないため。)

一方、このままではフィールドに出るチャンスはなかなかやって来ないこともわかっていた。開発の現場を知らずして開発のプロになれるわけがない。苦労して取った学位なんてただの紙だ。だったらチャンスが目の前にある今、それをつかまない手はない。しかもそれはスリランカという、私が行きたかった国。

結局は、決心するのにそれほど時間はかからなかった。慌しくアパートを片付け、ワシントンDCから丸二日かけてスリランカの商都コロンボに到着した。
筆者プロフィール

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.12.13

コンピューターが先住民の子供たちに広げたマヤ文化の世界(1)(上岡直子)

「地球に乾杯!NGO」をご覧になった読者の方々が用いた検索エンジンでのキーワードを元に、以前掲載したコラムを厳選してお送りいたします。
第9回:キーワード=「ラテンアメリカの教育」

6月のグァテマラへの出張は、主に首都のグァテマラ市で、USAIDとの協議と事業計画書作りに、明け暮れてしまった。でも私の担当する二言語教育のプロジェクトの実施地であるキチェ県まで、首都から車で3時間以上かかる道程にもかかわらず、とんぼ返りをしてきた。それには特別な理由があった。というのは、プロジェクトの活動の一環としてつい最近始まったばかりである、コンピューターによるマヤの言語と文化教授の実態をなんとしても見たかったからだ。近代的なテクノロジーと一見無縁である農村部の小学校に、コンピューター・センターが設置された。先生、生徒たち、そして父兄の反応はいかなるものだろうか。プロジェクトが開発したITプログラムは、どんなもので、どのようにクラスに使われているのだろう。貧しい農村部において、機械のメンテナンスや経費の面で、問題はないのだろうか。せっかくグァテマラまで来ていながら、それを自分の目で確かめないわけにはいかなかったのである。

 キチェ県の農村部の小学校にコンピューターを導入-これはもとから活動計画に入っていたわけではなかった。しかし、同じくUSAIDプロジェクトの"Learn Link"が、マヤの民間伝承の話や歌を集めたコンピューター・プログラムを数多く作成し、同じキチェ県に10数箇所におよぶコンピューター・センターを設置ていていた。それもあって、私達のプロジェクトも、そのプログラムやコンピューター・センターを活用させてもらっていた。例えば、教材開発の活動の一環として、教員がコンピューター・センターで、教材を作りができるようにはからったりもした。簡単なITスキルのトレーニングを与えることにより、教員がコンピューターに高い関心を示し、自身で教材開発を進めるのに夢中になる。こんな実例を目の当たりにしたこともあり、私たちの二言語教育プロジェクトも、対象の小学校幾つかにコンピューターを設置することを思い立ったわけである。小学校自体にコンピューター・センターを設置すれば、先生は自分の学校で教材開発ができる。それに加え、授業にコンピューターを利用することも可能になる。

 Learn Linkが、セコハンコンピューターを、米国団体"World Computer Exchange (WCE)"(www.WorldComputerExchange.org)より入手する計画を立てていたのに便乗させてもらい、私達のプロジェクトにもコンピューターを輸送してもらう手配が進んだ。WCEは、米国の団体や個人から、使用されていないコンピューターを集め、途上国に送る活動をしている、ボランティア団体である。コンピューターにつき40ドル程を徴収しているが、団体の維持費をカバーする目的であって、あくまで機械自体は寄付扱いである。

 私がグァテマラを訪ねた今年の6月、セコハンのコンピューターがキチェ県のプロジェクト実施地に届き、選ばれた8校の小学校がそれぞれ10台ほどのコンピューターを受け取り、コンピューター・センターを開いたばかりだった。プロジェクトは、ITの専門職員を使って、それらの小学校に対し、センターの設置の助け、教員向けに機械使用とメンテナンスに関するトレーニングを、すでに行っていた。しかし、私が訪れたサクァプ-ラの小学校では、生徒達向けには、その日初めて、コンピューター・センターがお披露目された。小学校1年から6年生の生徒、そしてまだ5、6歳であろう幼児部の子供達までが、先生に引き連れられて、一同にコンピューター・センターに次々集まってくる。講堂のような広めの部屋に、機械が整然と並んでいる様子を始めて目にし、皆一同にびっくりしたり、興奮して声をあげたりしている。そして、いよいよ教師が、コンピューターに電源を入れる…。(次回続き)

(本コラムは2003年8月25日に掲載しました。続きはバックナンバーでご覧ください。)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.12.06

私にとって身近なエチオピア、エチオピア人にとって身近なDC(利根川佳子)

エチオピアをインターン先に選んだ理由は、大学学部時代にアフリカ政治ゼミに入っていたので、地域としてアフリカに行きたいという気持ちがまず一番にあった。そして、アメリカに来てから、エチオピアが身近な存在になっていたからだ。エチオピアを身近に感じていた理由は大きく二つある。一つは、昨年インターンをしていたWorld Learningはエチオピアで教育プロジェクトを行っていた。私自身は、ラテンアメリカでの教育プロジェクトのお手伝いをしていたが、アフリカ担当の方からエチオピアのお話を聞くことが多かったし、個人的にエチオピアでの教育プロジェクトに興味を持っていた(http://www.worldlearning.org/wlid/news/ethiopia_education_story.html)。

2つ目は、現在在学中であるジョージワシントン大学も、USAIDのファンドでエチオピアで教師教育のプログラムを行っていたことである(http://www2.gwu.edu/~ethiopia/)。この関連からか、授業で事例としてエチオピアがよく使われており、いつのまにかアフリカの中で一番身近な存在がエチオピアになっていたのである。そして、運が良ければ、ユニセフのプロジェクトと併せて、World Learningとジョージワシントン大学が行う二つのプロジェクトもエチオピアにてぜひ見たいという思惑もあった。

さて、実際にエチオピアに行って知ったのだが、驚いたことに、エチオピア人にとって一番身近なアメリカの都市はワシントンDCであった。エチオピア人に「どこからきたの?」といわれ,もちろん「日本です」と答える。そして、「今はアメリカのワシントンDCで勉強しているんだけどね」と続けると、首都アディスアベバに住むエチオピア人の多くは、「母親がDCにいる」、「親戚がDCにいる」…と返ってくるのである。さらには、発音の近いダジャレとして、「ああ、ワシントンDessie(デッセイ)ね(笑)」と返される。(デッセイは、アディスアベバから約400キロ離れた小都市。)

ワシントンDCは、アメリカの中で一番エチオピア人が多い都市なのだ。特に、アダムス・モーガン、18ストリートの辺りは、エチオピア人が集中している。アメリカに行ったことがないアディスのエチオピア人も、「DCの18ストリート」を知っている。調べてみたところ、アメリカにいるエチオピア人約75万人のうち、約30万人がワシントンDCにいるそうだ。実際に、DCを走るタクシーの運転手の多くはエチオピア人だという。

ワシントンDCがエチオピア人にとって一番身近な都市であることも驚いたが、多くのアディスに住むエチオピア人がアメリカに行く事を夢とし、家族が離れ離れになっても渡米することに更に驚いた。ユニセフを初め、国際機関で働いている多くのエチオピア人は、家族の誰かがアメリカにいた。アメリカで働き、エチオピアの家族に送金しているのだ。途上国で田舎に住む父親や若者が、大都市に出稼ぎへ行くという話を聞くが、エチオピア人の中流以上の階級では、アメリカへの出稼ぎが多くなっているようだった。ユニセフの教育セクションの秘書をしている女性も母親はDCにいて、老人を訪問し、家を掃除するといった、訪問介護を仕事としているという。

エチオピア人の中流以上、上流の家族は、日本の中流家庭よりも裕福な生活を送っている場合が多い。お手伝いさんが家にいて,掃除も料理もしてくれる。そういう人たちが、アメリカでの生活とのギャップに耐えられるのだろうかと心配になる。

親戚の誰かがアメリカのグリーンカードが抽選で当たった場合、親戚中でお金を集めて飛行機代を工面するという。金曜日の夜(アメリカへの便がある日)は、空港は見送りの人が多すぎて、見送りのみの人は空港に入れない。私も友達を見送りに空港に行った日がたまたま金曜日で、空港の外で見送りの人たちが大行列を作っていた。アメリカへ行ったとしても、いつエチオピアに戻ってくるかはわからないのだ。

このアメリカ出稼ぎ傾向は、エチオピアの失業率が高いことも影響しているだろう。調べてみると、一番最近の情報で、1997年の失業率が30%となっており、現在は更に高くなっているらしい。また、エチオピアの都市にすむ15~30歳の男性の約半分は職がない状況だそうだ。私が、アディス郊外にある職業訓練高校を訪問した時に、先生が卒業しても職につける生徒は少ないと言っていた。その学校では、自ら起業することを生徒達に勧めていた。

ユニセフの秘書の女性も、システムエンジニアとして働いている女性も、私と同じ年ぐらいだったが、母親がずっとアメリカにいて離れ離れだという。エチオピア人の多くは、家族と暮らすことができなくても、アメリカで働きたいというアメリカンドリームを持っており、アメリカに行くことが高地位を表しているようにも感じた。また、アメリカ行きは、中流階級以上の人たちが豊かな暮らしを保つための一策かもしれない。アメリカにいる家族メンバーによって、その家族の経済的豊かさは守られているのかもしれないが、エチオピアでも家族の在り方が変わりつつある様子をさびしく思った。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.11.29

セネガルの現実(位田和美)

 前回書いたとおり、私は青年海外協力隊として、PLAの実践、住民のニーズの追及という課題を持って村落開発に挑もうとしていた。そのセネガルに足を踏み入れたのは2004年4月。協力隊の研修システムとして、到着後1ヶ月間は現地語学訓練で占められ、いざ任地へ赴任するときには、乾季ももう終盤に入っていた。

 そして、右も左もわからない任地へ赴任後、1週間足らずでとうとう雨季に突入した。雨季になると、各農家はこぞって種子や肥料を準備し、ときには農業銀行に対し、その年の収穫物を担保に融資を申し込んだりする。郡政府も、私の配属先である農村普及センターも、この頃には落花生の種子の販売管理に忙殺され、種子を求めて次々と押し寄せる農家をさばき、農耕準備の一環を担う。準備が整うと、人々は皆一斉に畑へ行き、朝から晩まで、雨が降る速さと闘うように、落花生や粟(ミレット)、とうもろこしといった主要作物の種子を植える。種子の植え付けが終わっても、農作業は延々と続く。雑草処理、土の掘り起こしなど、人のみならず、牛や馬の休まる暇もない。まだ幼くて農作業ができない子も、皆と一緒に畑へ行き、木陰でさらに小さい子の子守をする。まさに一家総出である。それもそのはず。この期間の雨量と農作業量が一年間の収穫量を左右し、その年に「食えるか」「食えないか」が決まるのである。住民の、一家の生活がかかっている。

 こうなると、もう参加型開発どころか、住民と話をすることもままならない。雨のために陥没の多くなった悪路を忍んで村へ行っても、老若男女とも畑へ出払っているため、村はもぬけの殻である。たまに昼食担当で家に残っている女性に出会っても、重労働の農作業と家事の二重苦でやせ細り、今にも倒れそうである。

 こうして私の意気込みは、村のリアリティの前に総崩れとなり、はからずしも雨季が明けるまで、少なくとも住民の邪魔にならないよう、村の生活を観察することになった。その数ヶ月間、農作業に勤しむ住民の生活と、私の持つリアリティとのギャップを痛切に感じた。そして、いつしか私自身が持っていた村落開発課題に挑戦する見通しと自信をすっかりなくしてしまったのである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.11.01

インターンの獲得:人とのつながりの大切さ(利根川佳子)

このコラムでは、2004年5月~7月の2ヵ月半の間行ったユニセフ-エチオピアでのインターンの体験を書かせていただくことになっている。ユニセフのインターンを通じて実際にエチオピアで体験して学んだことをこのコラムで書いていきたい。
第一回目は、インターン獲得の経緯について書きたいと思う。

1年制ではなく、2年制のアメリカの大学院を選んだ理由の一つは、夏休みの間にフィールドでインターンができるという点であった。
それまで開発と教育に関心をもって勉強していたが、実際に途上国といわれているところに行ったことがなかった。やはりフィールド経験を通して、自分の開発援助への信念を確認したいという気持ちがあった。また、修士に進む多くの人が職務経験を持つ中で自分に実務経験がないという点からも、インターンを通して少しでも実務体験を得たかった。

ユニセフ-エチオピアでのインターン獲得は、人とのつながりそして行動力により成し得たものだと思う。

日本のNGOでボランティアの経験があり、また、アメリカでもワールド・ラーニングでコラムの執筆者でもある上岡直子さんの下、インターンをさせてもらっていたので、夏のインターンでは、NGOの視点とは異なるであろう国際機関の視点を学びたいと思っていた。国際機関の中でも、特にアフリカで女子教育プログラムを行っているユニセフでインターンをしたいと考えていた。ユニセフは、African Girls Education Initiativeというアフリカの女子教育に焦点を当てたプロジェクトを1996年から行っている。

私のような職歴のない大学院生がユニセフの現地事務所でインターンをするには二通り方法がある。一つは、日本ユニセフ協会の支援による現地事務所への派遣(http://www.unicef.or.jp/new/0305_a.htm)、そしてもう一つが一般公募
(http://www.unicef.org/about/employ/index_internship.html)である。
日本ユニセフ協会は、旅費を支給してくれるため大変魅力的であった。もちろん応募した。しかしながら、例年アジアに学生を送っている協会に、アフリカに行きたいという私の想いが伝わらなかったのか、面接があまりうまくいかなかったのか、残念ながら受かることはできなかった。それが、2003年の11月頃だった。

日本ユニセフ協会を通してのインターンの選考には落ちたものの、やはりユニセフでインターンをしたいという気持ちを捨てることができず、一般公募でのインターン募集に申し込もうと考えていたとき、同じ大学院の先輩が1年前の夏にアフリカでユニセフのインターンをしていたという情報を得た。その先輩に連絡をとってみたところ、ニューヨークのユニセフ本部にいらっしゃる職員Aさんに相談してみてはどうかと言われた。先輩から、Aさんのメールアドレスを教えてもらい、複数のメール交換をしてユニセフのことについて色々と伺った。Aさんとのメールのやり取りで、ますますユニセフに興味を持った私は、ぜひ直接Aさんからお話を聞きたいと思い、ニューヨークのユニセフ本部まで訪ねることにした。それが2003年の12月末である。

年末のお忙しい中、お時間を作ってくださったAさんから、多くののユニセフの資料をいただき、ユニセフ組織全体の活動や活動理念など詳しいお話をうかがった。その時に、私の今まで学んできたアフリカ政治や現在学んでいる教育の開発のこと、そしてユニセフでのインターンを通して、いつも弱い立場に置かれている女の子への教育のあり方についてのユニセフの視点を学びたいという熱意をAさんにお話した。そして、Aさんがお知りあいのユニセフのアフリカ事務所で働く方達を紹介してくださるということになった。

形としては、一般公募のプロセスを踏んだが、Aさんが私の推薦状を書いてくださり、現地事務所へも直接メールを出してくださった。このAさんの推薦がなければ、私がユニセフのインターンを獲得することは難しかっただろう。実際に国際機関へのインターン獲得は大変競争率が高いと聞いているし、私の友人でたくさんの現地事務所へ一般公募でのインターンを申し込んだが、返事は全くもらえなかったと聞いた。

私は本当に運がよかったと思う。Aさんを紹介してくれ、親身に相談に乗ってくれる先輩が近くにいたし、Aさんもフィールドの経験を重視し、積極的に若者をバックアップしてくださる心強い方だった。敢えて言うなら、私がそのような素晴らしい人たちと知り合えるチャンスを逃さなかったのが良かったといえるだろう。

実際のエチオピアでのインターンでは、さらに人とのつながり、フットワークによって多くの経験を得ることができた。
次回は、エチオピアを選んだ理由について書きたいと思う。
筆者プロフィール

| | Comments (0) | TrackBack (1)

2004.10.18

セネガル前夜(位田和美)

 私は現在、青年海外協力隊としてセネガルに暮らしている。人々の"テランガ(=持てなし)"と甘いアタイヤ(=中国茶)、そして大きなバオバブの木に迎えられ、早くも半年が経とうとしている。そもそも、なぜ青年海外協力隊としてアフリカの地を踏むことになったのか。ここでは、今に至るまでの経緯をご紹介したい。

 私は大学時代、会社員時代を通してアジア、特に東南アジアを追い続けてきた。それは、日本と東南アジアとの地政学的、政治経済的緊密性および個人的な歴史的経緯への関心に起因している。ところが、留学していたマレーシアに暮らすうち、上記の学術的関心を充足すると同時に、意外にも多くのアフリカ人留学生・研究者に出会い、東南アジアを構成する一国家としてのみならず、「中進国」「イスラム国」としての多面性をも有するマレーシアの国際性に改めて気づかされた。また、彼らを通して、黒人差別の存在というマレーシア社会の暗い一面を垣間見ることにもなった。

他方、彼ら自身は彼らの文化や風習を重んじ、互いに思いやり、誇り高く暮らしていた。そして私は、彼らとの対話を通して、彼らの人間としての懐の深さや自国の将来に対する熱意に次第に興味を持つようになった。協力隊受験時にアフリカ派遣を希望したのは、彼らを輩出したアフリカ社会をもっと知り、そのダイナミズムを多少なりとも感じることができれば、と思ったからである。

 その協力隊であるが、私は村落開発普及員として派遣されている。村落開発普及員とは何か。明確な定義はないが、一般に、農業や保健、教育、収入向上など、村落に関わる多様な分野の発展を、住民と共に考え、実現可能な改善策を住民とともに模索していく役割を担う、とされている。何とも曖昧な職業である。

 折しも、私はセネガル派遣前に2度ほどPLA(participatory Leaning and Action)研修を受講する機会があった。そこでは、PLAツールの習得よりも、むしろファシリテーターとしての心構え、住民に接する際の態度といった、住民のニーズ発掘に携わる外部者の人間性の探求、および理念としてのPLAの習得に焦点が置かれていた。これらの学習を通し、私は「住民とファシリテーター間、あるいは住民同士の相互の学習を通して」行動変容を促す、「住民に住民自身の課題について考える機会を持ってもらう」というPLAの理念と、私の途上国一般に対する関わり方との共通項を見出すことができ、さらにこのPLAの理念を実践に移したいと思うようになった。これには、村落という大きな集合体を抱え、総合的にどんな分野にも手を出すことのできる村落開発普及員という立場を活用するのが有効である。ましてや、青年海外協力隊ともなると、2年間一箇所に留まり、まさに文字通り住民と生活を共にしながら村落の抱える課題に取り組むのである。かくして私は、青年海外協力隊事業という制度の下、PLAを実践・活用し、住民の本当のニーズを追及してみたい、という課題を掲げ、セネガルへやって来たのである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.10.10

マラウイ徒然(9)食糧危機(1)(小林由季)

「地球に乾杯!NGO」をご覧になった読者の方々が用いた検索エンジンでのキーワードを元に、以前掲載したコラムを厳選してお送りいたします。
第5回:キーワード=「食糧危機

 今回は「中小企業振興」の続きを書く予定でいたが、緊急性がある「食糧危機」があまり知られていないように思えるので、予定を変更した。しばらく「食糧危機」について書き、また「中小企業振興」に戻ることにしたい。

 マラウイでは2002年2月末に大統領が食糧不足による災害事態を宣言した。食糧不足といってもぴんとこないかもしれないが、まずは「いくら不足しているのか」ということを数字で追いかけてみたい。

 マラウイの農業カレンダーといいましょうか、食糧供給のサイクルは、12月から3月のメイズ栽培期を基準としている。穀物栽培期は12月から3月まで、穀物販売期は4月から翌年3月まで、というわけ方をする。

 2000/01穀物栽培期(2000年12月から01年3月まで)のメイズの不作に端を発した食糧不足は、2001/02栽培期中に500名以上が餓死するという事態につながった。そして2001/02栽培期も引き続き不作であった。マラウイ人の主食はメイズで食事の80%を占めているが、不作であったメイズの代わりになるキャッサバやさつまいも等の生産高についてはわずかに増えたものの、メイズの不作を補うには至らなかった。

 USAID Famine Early Warning System Network (FEWS) Malawi Food Security Report mid-Nov to mid-Dec 2002によれば、マラウイで必要な食糧は年間約247万トン(以後、トンとはmetric tonのこと)と見積もられている。それに対して、02/03穀物販売期(02年4月から03年3月まで)をまかなうため、国内で生産された食糧は177万トン。それと、02年4月以前から持ち越した備蓄食糧3万トンの合計は180万トンしかない。

 よって67万トンは国外から調達しなければならないが、昨年12月現在で、政府輸入分23万トン、援助分10万トンの計33万トンが流入しており、12月17日現在では事実上34万トンが足りないという計算になる。その内、今後の予定分が政府輸入分2万トン、援助約束分7万トンの計9万トンが予定通り流入すれば、残りの必要調達量は25万トンである。


マラウイ02/03穀物販売期(02年4月~03年3月)の食糧事情
必要な食糧の総量 247万トン
-)国内生産量 177万トン
-)前期からの備蓄食糧持ち越し 3万トン
=足りない量 67万トン
------------------------------
-)政府輸入分 23万トン
-)援助分   10万トン 10万トン
=12月現在で足りない量 34万トン
------------------------------
-)政府輸入予定分 2万トン
-)援助が約束された分  7万トン
=3月までに足りなくなる量 25万トン

 FEWSは、上記の必要調達量25万トンは統計に上がってこない近隣国からのインフォーマルな形での輸入でカバーされる可能性も大きく、今後の政府輸入及び援助予定分が速やかに入ってきさえすれば、3月までに必要な食料は総量としては流入するかもしれないと楽観的な見方を示した。

 しかし、仮に総量でみて国内に充分な食糧があっても、全ての人がその食糧にアクセスがあるのか、というのは別問題である。

(本コラムは2003年2月14日に発表されました。)続きはバックナンバーでご覧下さい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.09.26

グァテマラ二言語教育プロジェクトと企業との協力の実例(上岡直子)

 前回の私のコラムは、グァテマラでのNGO向けCSR(企業の社会的責任)にかかるセミナーを紹介したが、当コラムでは、World Learningの二言語教育プロジェクトが、いままでどのように企業と連携を図ろうとしたか、まとめてみたいと思う。

 当二言語教育プロジェクトは、教員養成や教材開発といった技術支援を行うのにあわせ、政府や民間を対象に、二言語教育に関するアドボカシーを行い、先住民に対する教育、そして特に、二語教育に関する支援を広く推進することも、必須な要素みなし、活動を行ってきた。その一環として、企業や企業財団に対しても、先住民の教育に係る問題を伝え、二言語教育の重要さを唱えたり、プロジェクトの経験を発表するセミナーに招待したり、積極的なアプローチをした。その具体的な結果は、いかなるものであったか。

 グァテマラでは、政府・民間に関わらず、非先住民の人々が、先住民に係る事柄や問題に関心を持つことは、一般的にまれである。マヤの言語や文化を教授する二言語異文化間教育となると特に、それがどのような意味で重要なのか理解する人は多くない。ましてグァテマラのビジネス・コミュニティとなると、その殆どが、中・上流階級に属するラディーノ(グァテマラでの非先住民の総称)で構成されている。彼らは全般的に、マヤの二言語異文化間教育に無関心か、それがどのように国の社会経済的発展に役立つのか疑がわしく思っている。なかには、マヤの文化や言語がグァテマラの開発の障害になっていると見なす企業人もいる。二言語教育なら、スペイン語にあわせ、国際化に役立つよう英語、というのが、通常のビジネス・コミュニティでの認識である。

 そんな状況下、プロジェクトが企業に対して、先住民向けにマヤの言語や文化を教授することの重要性を理解してもらい、具体的な支援を得るのは、容易ではなかった。しかし、企業と辛抱強く接触を保っているうちに、ついに教育に特に関心をもつ企業の連合である、Empresario por la Educaciónが、昨年の七月に、当二言語教育プロジェクトに、グァテマラ農村部の教育の現状について発表して欲しいと要請してきた。プロジェクトチームが、先住民が主体の農村部の教育の実態(先住民言語で育った子どもたちが、小学校ではスペイン語で授業が行なわれるため、就業率が悪く、学習効果も限られていること)、また、プロジェクトが先住民の言語を用い教育成果をあげたことを、企業人向けに紹介した。それが参加者何人かの二言語教育に関する関心を喚起し、その数ヶ月後に、これらのEmpresario por la Educaciónのメンバーが、プロジェクトが二言語教育支援をしているキチェ県の小学校を実際に訪問した。これらの企業人は、今まで農村部のそして先住民の子どもたちが通う小学校を訪れる機会などなかったため、学校施設の劣悪さや、教科書が圧倒的に不足している実態に驚きをもったと同時に、プロジェクトが、コミュニティにある資源を利用しながら教師と父兄自身が創った二言語教育教材を活用していることなどに、非常に興味を示した。また、教師が、伝統的な講義スタイルでなく、参加型の教授法を駆使して授業を行い、そのために生徒が楽しみながら生き生きと学んでいる姿も、新鮮だったようである。

 政府に対するアプローチでもそうだが、実際にプロジェクト・サイトを訪ねて活動の実態をみてもらい、土地の人々と話し、またプロジェクト職員の働きぶりに直接触れてもらうことほど、効果的なアドボカシ-はない。この学校訪問の際、訪問した企業の人々は、二言語教育の重要さが初めて分かったと述べ、これからは他の企業に対しても、二言語教育に関心をはらい支援するように勧めたいと述べていた。その後、Empresario por la Educaciónとは共同で、企業の教育支援に関するセミナーを行い、コロンビアやドミニカ共和国から企業を呼んで、事例を紹介してもらったりと、徐徐に協力関係ができあがってきた。

 当二言語教育プロジェクトは、ホテルを含む企業団体から小規模のギフトをもらったりという、寄付の例もいくつかあるが、従来先住民の実態を知る機会がなく、二言語教育やマヤの文化伝統を学習することの意味が分からなかった企業の人々の認識を、少しでも変えることできたというのは、ギフトを得る以上の実績でないかと思っている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.09.19

Seeing is Believing(4)―アフリカ開発を考えたとき(後)(工藤真友美)

(前回のコラム:Seeing is Believing(3)―アフリカ開発を考えたとき(前))

 彼女はこの学校をこの地域の公共の場を利用して運営している。運営費はおそらく公共の費用なのだろう。ただ、給料は出ていないそうだ。ボランティアとして、子供達に文字や、計算など教えているのだった。ロータリークラブとしては、そこでまかなえきれない分や食料などを援助していた。その先生は自分はまだまだ若いわよ。といっていた。子供達がいれば、若くいられるのだと。

 peace corpsでアメリカから丘の上の学校の教育指導にきていた人も、たまにこの学校に来て手伝っているらしく、たまたま居合わせた。もちろん、授業はズールー語。ズールー語のアルファベットから始まる。私も一緒になって学んでいて、手伝うというより、邪魔している感じだった。その後は、特別授業で私が折り紙を教えることになった。とはいっても、ズールー語を流暢に話せるわけではないので、先生と助手の人が子供達に通訳してくれていた。それでも子供達は私に直接「これどうするの?」(とおそらくいっているのだろう。)聞いてくるのだ。言葉が通じなくていらいらしていた私にかまわず、子供達は真剣そのものだ。折り紙ひとつに。なんだか、なんか自分が教えている立場だったのに、逆に学ぶことが多かった。言葉がだめなら表情で子供達は返してくる。nice!とかgood!といった私でも分かるズールー語を使ったらものすごくうれしそうな顔をされた。

 80歳の先生と終わった後に話をした。なぜ、無償で先生をしようと思ったのか聞いたのだ。先生は、確かにお金とかないので、ちゃんとした教育制度を整えることはできないけれど、でも、やる気のある生徒、そして紙とペンくらいがあれば何かは教えることができるはず、と言った。自分が地域の大人たちに計算や文字以外の、生きていく術を学んだように自分も大人になった今、基本的な勉強以外にも供達に何か伝えることができたらいいといっていた。まだまだがんばらなくちゃと。とても80歳には見えないくらいバイタリティとやる気に満ちた人だった。そして、何より、前向きに人生を楽しんでいるようにみえた。

 アフリカには、地域や、部族の中で自然とコミュニティデベロップメントが行われているのだ。互いに困ったときは助け合い、それをみて育った子供がまたそれを実行する。できる範囲でどうにかしようとするのだ。やる気にあふれている。自らの手で、自らの地域を変えていこうとする力は十分にあるといってよい。反アパルトヘイト運動だって、そういった村や地域の集まりから始まったものだ。アフリカ特色として、地域の団結力がある。それをうまく開発に生かすことはできないだろうかと思う。

 彼らに必要なのは、費用だったり、管理制度であったり、ちょっとした技術だったりする。ドナーの考えを押し進めるのではなく、その地域に根付いているもの、伝統、習慣、そういったものをうまく取り入れていくことがアフリカ開発において、すごく大事なのではないかと思う。そのためには、やはり、現地の人と一緒に暮らしをともにしないと分からないと思う。アフリカを肌で感じてこそ、はじめて効果的な開発戦略に結びつくのではないかと思う。Suitable and Sustainable developmentを成し遂げるには、助けてあげるといった、上から下を見る視線では無理である。仮に、私がここでこの学校のためになんらかの支援をするとしても80歳のおばあちゃんを私が助けるといった構図はまったく想像できない。また、新しいものを導入するだけが開発ではないと思う。同じ目線で、自分が同じ状況なら、一体何が必要なのか、何をすることが適切なのかといったことを考えて、人々ができる方法を考える必要がある。そう考えると、私の中でのアフリカ開発の定義は「現地の人々と一緒によりよい社会を作っていく作業」だと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.09.05

Seeing is Believing(3)―アフリカ開発を考えたとき(前)(工藤真友美)

 先日アフリカはなぜ開発が遅れているかという論文を書くために、「開発学を学ぶ人のために*」 という本を読んでいて、開発を勉強、または仕事とする人は開発とは何かという自分なりの答えを持っておく必要があると言葉が目に入った。開発に関して勉強していたのに、こういう根本的なことをあまりじっくり考えたことがなかった。

 私の場合、アフリカに思い入れが深いので、アフリカを開発するとはどういうことかを考えてみた。今までは、先進国が、アフリカを助けてあげるという考え方しかできなかったのだが、ふと、衝撃的な出会いを思い出した。その人に会ってからというもの、助けてあげるのではなく、「一緒に開発していく」という考えが私の中で定着していた。

 私のことを受け入れていたピートレティーフロータリークラブの活動の一環で、(ロータリーの留学プログラムの場合、必ず、送り出すロータリークラブと、受け入れるロータリークラブが提携して留学が成り立つ。)タウンシップ(主に黒人が住んでいる地区)の障害のある子供達のための学校に毎月寄付や物資の支援を行っているということで、私もついていった。タウンシップは白人の中流階級とは対照的で、小屋のようなところで大家族が住んでいる。もちろんタウンシップ内でも貧富の差はある。南アフリカの中では貧しいとよばれる場所である。物保護区、自然保護区、などと違って観光客はなかなかお目にかかれない南アフリカの一面である。

 学校というのだから、丘の上に見えた大きな建物に行くのかと思えば行った先は、7,8畳ほどの広さの小屋のようなところだった。その中で15人くらいの子供達が待っていた。

 正直「ここが学校?」という印象を受けた。もちろん、ここは途上国で日本と比べてはいけないのは分かってる。しかし、これはさすがにひどい。そう率直に思った。改善はされてはきているが、まだまだタウンシップでの教育問題は山積みだ。障害者専用の教育まで手が回っていないのだそうだ。そこでであった、80歳のおばあちゃん先生がこの障害者用の学校を公共の場であるこの小屋を使って始めたのだそうだ。

 この80歳のおばあちゃんこそが、アフリカの人はかわいそうだから助けてあげようという考えを一掃したのだった。そもそも、かわいそうとか、助けてあげようといっている時点で、アフリカを下に見ていることになる。事実、経済や政治制度の数値的や、制度的な観点からいえば、確かにそうだ。貧しいのは事実。ただ、人々の心や、考え方は決して劣っていることはないと思う。少なくとも、この80歳のおばあちゃん先生は日本の80歳のおばあちゃんより、進んでいるのではないかと思う。

(*菊地 京子 (編)(2001年)「開発学を学ぶ人のために」世界思想社

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.06.27

途上国でインターンを受け入れる(2)途上国で成功するインターンの資質(畑島 宏之)

 これまで一緒に仕事をしたインターンなどから、私なりに、途上国でのインターン生活を有意義に過ごし、実りある実績を残すことができたインターンに共通した資質があったように思う。以下に挙げてみよう。

1、積極性

 まず、仕事の面で積極的か?というのがある。与えられた仕事や決まりきった作業を超えた、提案や意見を出せるインターンというのは、常に評価が高い。また、忙しい職員を捕まえていって報告をしたり、コメントを求めにいったりというのも、相手をする職員としても大変なのだが、実は好意的に受け止められるのだ。

2、柔軟性

 途上国では特に、簡単なことでもうまくいかないことが多い。インターンをはじめる前にいろいろ予定を立てていても、そのとおりにいかないことがある。その時でも別のやり方を探しだし、柔軟に考えを変えていけるのも重要だ。

3、環境になじめるか

 先進国からくるインターンの大多数がアフリカのような途上国ははじめてというケースが多い。病気や治安のリスクがある中で、どれだけストレスなく生活できるかというのが実は最大のハードルではないかと思う。そのなかで、優秀なインターンはよく働くのと同時によく遊んで帰っていった。遊び場所や飲食店など、現地生活が長い職員以上に穴場開拓につとめたインターンもいた。また、現地で積極的にネットワークを築いたものもいた。異なる文化、環境にもかかわらず、友を作り、自分の居場所をつくれるかどうか。それができたインターンは、その短期の仕事のあと、いろいろと面白い場所で活躍し続けている。

 不平不満を言う割には働かないインターンには職業人として問題だと思うし、病気で倒れてしまったインターンはやはり途上国相手の仕事との相性があるか疑問に感じてしまった。また、活躍したインターンも、そこでの経験からまったく違うキャリアを結局後で選ぶことにした人もいる。インターン先で組織のあり方を経験し、業界全体のあり方に疑問をもつケースは多い。インターンでの経験は良い意味でいろいろな「試し」の一部だろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.06.20

インドNGO訪問メモ~インテリ、中産階級、海外移住組(松尾沢子)

先月末までの8ヶ月間のバングラデシュ滞在中、隣は何をする人ぞと、南アジアの大国インドのNGOを訪ねた。まずは、広大な土地、India Shiningという政治スローガンそのままの活気ある街角と人々の自信に満ちた表情に圧倒された。農村部は行かなかったので断定はできないが、バングラデシュとの比較では数段近代化が進んでいる国で、NGOがどんな役割を果たしているのだろうと興味をそそられた。以下、特に印象に残った2団体の活動を通じて考えたことをご紹介させていただく。

I. SLIC (Socio-Legal Information Centre)
1.団体概要:1980年代後半から活動開始。適切な法の執行により、すべての人に平等に基本的人権と正義が実現されることを目指す法曹関係者の集団。社会的弱者(女性、子供、難民、その他差別に苦しむ人々など)からの要望にこたえるべく、法律相談、法律講座、難民申請・定住等にかかる諸手続き支援などの活動を実施。その際にはHuman Rights Law Network (HRLN)という全国規模の法曹関係活動家のネットワークを駆使して情報交換や共同事業を実施することもある。財政面は全面的にドナーに依存しており、たとえば難民関連の事業はUNHCRインド事務所からの委託となる。

2.考えたこと:法曹関係者としては廉価の報酬でありながら(時には無償で仕事を引き受けることもある)自らの仕事に誇りをもって取り組み、全国規模のネットワークを駆使しつつ、社会的弱者の立場から不正義、人権侵害に対応しようとする姿勢は、NGO活動の原点といえる。デリー事務所訪問時に垣間見た離婚係争中の妻からの依頼を受け、夫の海外逃避阻止のために、渡航先大使館や裁判所他を巻き込んだ彼らのトラブルシューティングの一幕。軽快なフットワークと熱意で事にあたるという一般的なNGOへの印象そのものであった。

他方組織運営面をみてみると若干不安が残る。インドでは経済発展に伴い中産階級が増えているといわれるが、彼らのNGOなどの市民団体への物心両面での支援は未だ限定的だと聞いた。SLICの理念、社会における活動の意義を理解し、支援することができるのはインド社会の中でも教養と社会性があり、かつ経済的余裕のでてきた中産階級以上と思われるが、SLIC側からもまだ十分アプローチしきれていない。長期的に彼らの活動が社会に根付くためには、中産階級を中心とした個々人への啓蒙活動と、民間企業系の財団などとのパイプ作りが今後一層必要になると考えた。同時に、人はどれだけ満ち足りたら自主的に富や知識を分配しようと考え始めるのかということが問いかけられているように思った。

II SOSVA (Society for Service to Voluntary Agencies, www.sosva.org)
1.団体概要:インド社会のボランタリーセクターが地域、特に恵まれない層に対し、より効果的に貢献できるよう各団体の組織・能力強化を支援するための団体。具体的な活動としては、主婦や学生など社会的関心と時間的余裕のある人々を地域ボランティアとして登録・派遣、医療施設への海外からの医療機器供与事業支援、NGOマネジメント研修、ボランタリー団体の透明性確保に向けた評価制度導入などがある。

2.考えたこと:今までみてきた元官僚が始めるNGO活動は設立者の現役時代の人脈と政治力を活用しつつ関連業務を請け負う、いわば行政の下請け的な活動であるケースが多く、SOSVAの活動についても当初はあまり関心がなかった。しかし、同団体の活動内容をよくみてみると、その創造的な活動に感心した。

団体代表はまずはNGOセクター内の課題を洗い出し、NGO自らができることと、官或いは民間の協力を得て対応できることを整理することから始めている。前者のNGO自らができる組織体制強化やスタッフの能力開発などについては、SOSVA独自で取り組み、さらに部門ごとで若手への権限委譲もすることで自らの組織ガバナンスの改善にも着手している。後者については、現状を踏まえた問題提起を官と民に対して行い、ボランタリーセクターに優しい新制度の導入がなされるように働きかけている。

活動の中でも、彼らが州政府に提案したBridge Loan Fund (BLF)は興味深い。ことの始まりは、公的機関のNGO支援事業承認後、実際に資金の支払いが行われるまでに時間を要した際に、自己資金が限られていて資金振込み時まで持ちこたえられない弱小NGOの資金ギャップの問題が深刻だったことによるとのこと。日本の民間助成金やODAのNGO関連事業は個々のプロジェクトへの支援のみを想定しており、管理費部分でさえもNGO側から再三要望が出されているが未だ大きな制度変更には至っていない。今後日本でNGOセクター全体の足腰を強くするようための方策が、NGOとドナーで検討されるような際にはこのやり方は参考になるのではないかとアイデアをもらった。

もうひとつ興味深かった点は、インド本国と海外のインド人コミュニティのつながりである。同代表は州政府の役人ながらも一時期世銀に勤めた経験をもち、その関係で米国のインド人コミュニティとつながりを持つ。その縁から米国で成功したインド人たちの母国支援の窓口(医療機器供与関連)になったり、彼らを通じて欧米のボランタリーセクターに関する考え方を吸収したりもしている。

バングラデシュでも同じように、一度は海外へ流出した頭脳や資金が、NGO活動という形で本国に還元されているケースに遭遇した。移住や出稼ぎなどの理由で先進国へ赴いた「南」の人々は、そこで成功し「北」の住民となっても、故郷の家族或いは社会とのつながりを切ることがない(或いは切れない)。世界各地で人のダイナミックな移動が日常茶飯事になっている。「A国からB国へ」という国単位の関係図に、国外の当該国のコミュニティ分布図も重ね合わせ、人と資金をつなぎあわせて開発に取り組むことが当たり前になりつつあるのではと、日本の協力のあり方について考えさせられた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.06.06

REFLECT識字教育プログラム(岩岡いづみ)

 女性の識字教育に関する研究のため、ネパールに滞在したことは前回のコラムでお伝えした通りである。そこでケーススタディとして取り上げた識字教育プログラムの一つがイギリスに本部を置く国際NGO、アクションエイドのREFLECT識字プログラムである。 REFLECTとはブラジルの教育学者パウロ・フレイレの理論を元に組み立てられた識字の習得と同時にコミュニティー開発を狙った参加型識字プログラムだ。この枠組みの中でデザインされた識字教育とは単に読み書き計算能力の習得のみならず、識字の習得を通じて社会的弱者が不平等な力関係を少しでも平等な状態に持っていくことを狙っている。REFLECTの主な特徴を挙げてみると

1) 教科書を一切使わない
 教科書とはコミュニティーに住む住民自体の問題、コミュニティー自体の問題に精通していない部外者が作成したものであるから、教科書を使うことは学習者の創造力を養う機会と学習者自身やそのコミュニティーの問題について熟考する機会を妨げることになる。代わりに学習者はREFLECT教室でディスカッションを通して学んだ新しい単語をノートにとり、それが最終的に学習者の教科書となる。

2) ファシリテーターの役割は教えることではなく、問題提起を促すこと
 REFLECTの理念のひとつに「教育とは知識を持ったものから持たぬものへの詰め込み教育であってはならない。」というのがある。REFLECTにおいてファシリテーターは学習者との「対話」の一部でなければならない。ファシリテーターの役割とは対話を通して学習者に自身と自身を取り巻く状況について深く考える機会を提供することにある。 トップダウン式の教育はファシリテーターが権力の保持者に陥りやすいため、REFLECTでは参加型アプローチを重視する。このようにREFLECTではファシリテーターと学習者の力関係に極めて敏感である。

3) PRA
 REFLECTはPRA (参加型農村調査法)をベースにしている。季節カレンダー、ソーシャルマップなど参加型ツールを用いながら地域の問題、季節に応じた農業の問題、病気などについて話し合い、その中からファシリテーターが選んだキーワードについて話し合いを進めながら新しい単語の読み書きを習得する。同時に地域の問題についても話し合いを通じて問題解決に向けて動機づける。

 REFLECTほど住民主体を重視した識字プログラムもなかなかないかもしれない。しかし10ヶ月のプログラムが終了した時点で学習者の半数は自分の名前や簡単な単語以外に読み書きをすることは難しいと答えた。柔軟性に富んだファシリテーターによってプログラムが実施されていたら、もしくはプログラムの参加者の年齢層がもっと若ければ違った結果が出ていたのか、それともプログラムの目的自体が非識字者にとって無理があったのか、今後個人的に研究していきたいテーマである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.05.30

コミュニティと住民参加-プロジェクト実施にあたって再考してみると(2)-(上岡 直子)

 前回のコラムでは、World Learningのグァテマラ二言語教育のプロジェクトが、住民参加を活動の重要な一部としてプロジェクトを実施したことにより、父母会のメンバー達が二言語教育の重要性を理解し、子供たちの教育を積極的に支持するまでになった。しかしそれにもかかわらず、昨年末の評価調査では、ドロップアウトの減少、就学率向上というようなデータに、特別な変化が見られなかった、ということを述べた。プロジェクト期間が短ければすぐ数字に反映されるのが難しいのはわかるが、当プロジェクトは、すでに五年も実施している。このような定量的指標は、プロジェクト以外の外的要因にも左右されるので、これだけでプロジェクトの達成度を測るのは適当でないことは承知している。

 しかし、ここで次の疑問が沸いてきた。住民の参加を促すにあたって、父母会を対象に会話をもち、そのメンバー達の教育に対する意識改善・行動をおこすことを助けてきたが、その効果は父母会の活動に積極的に参加してきた人々に留まり、他の父母達が教育に対する理解や関心を特に高めたわけではなく、その理由もあって、コミュニティ全体の学校教育の底上げにならなかったのではないか。

 通常World Learningが教育プロジェクトを実施する際は、コミュニティにすでに存在する父母会を活用し、それを対象に住民参加を図る。しかし、前回のコラムで言及したJo de Berryは、その“Exploring the concept of community: implications for NGO management” ( CVO International Working Paper Number 8, 1999. Center for Civil Society, London School of Economics )というペーパーにおいて、NGOが既存の住民組織を通じて、コミュニティ・ベースの活動を行う際に、注意すべき点を幾つか指摘しており、そのひとつが以下である。

 既存の住民組織は、コミュニティの一部のエリートにより組織され、構成されている場合が多いため、コミュニティ全体を代表しているとは限らない。よって、コミュニティ内に存在する他の社会階層の意見と参加を、排除していることがありえる。外部者であるNGOは、コミュニティを同質の統一体と捉えがちであるが、いずれのコミュニティもヒエラルキーが存在し、社会的に分断されているのが普通である。その現実と、複雑な力関係は、外部者には理解し難い。これらのヒエラルキーや分断は、経済的なものであったり、ジェンダーや異なる民族グループに起因する社会的な要素によるものであったりと、様々である。

 そこでグァテマラの場合を鑑みると、父母会を通じて住民参加を図ってきたわけだが、Jo de Berryが指摘するように、父母会も一部のエリートなり社会層が構成するもので、コミュニティ内の様々な経済的社会的グループそれぞれが代表されているとは、限らないのではないだろうか。私がグァテマラを訪れたときに参加した父母会のミーティングでは、出席者の殆どが農民のようであったが、そういえば何人かは携帯電話を、畑仕事用の鉈などと一緒に腰のベルトにぶる下げていたのを、思い出す。その人達は、その農村の農民のなかでも、比較的恵まれている人たちなのであろう。また、参加者の一人は、着ているものからして一般の農民と違う、Tシャツ、ジーンズ姿だったので、人に訊ねてみたら、米国に出稼ぎに行き蓄えた貯金で、その土地には珍しい立派なコンクリート作りの建物を建て、雑貨屋を営んでいるとのことだった。そしてなによりも印象的であったのが、女性の参加者の少なさであった。二十数名集まっていた人々のうち、女性はただの二人。学校の父母会というと女性が多いように思うであろうが、男性が殆どだった。プロジェクトの住民参加担当者の説明によると、コミュニティには通常多種の住民組織が存在するが、女性に特化したグループ以外は、殆どの組織が男性中心に構成されているのが一般的で、学校の父母会もその例外ではない。そして、父母会のミーティングや活動も、男性が大多数の場合が多いとのことだった。そうしてみると、父母会の活動から、女性の意見や参加が、かなり排除されているのは明らかである。また、グァテマラの山岳地帯、特にプロジェクト実施地のキチェ県では、内戦中に寡婦になり、母子家族で子供を育てている女性の割合が多い。これらの母子家族は、父母会より一切疎外されている可能性が高い。

 学校の父母会のメンバーに女性の割合が少ないのに関しては、グァテマラの同プロジェクトは特別な配慮を図り、プロジェクトの途中から、50のコミュニティにおいて、女性の父母会参加を図るための活動を、試験的に加えた。まず、コミュニティの男女双方を対象に、父母会の女性参加が重要であることの認識を促すワークショップを実施した。そしてそれと同時に、女性を対象とし、父母会の活動への参加を助けるためのトレーニングをおこなった。内容は、教育の重要性に関する一般的な事柄から、父母会の組織構成や機能などに及ぶ具体的知識、また簡単な識字教育にまで及んだ。父母会に参加することを躊躇していた女性たちが多少でも自信をつけ、父母会の活動に意義を見出して、積極的に参加していくことを助けるのが目的であった。この活動により、これらの50のコミュニティにおいては、父母会メンバーの母親の割合が平均25%まであがり(当活動前は、平均5%)、また父母会の母親メンバーが、父母会が主催するミーティングや活動に、他の女性達を引き込むことから、全般的に女性が学校や子供たちの教育に、以前に比べ積極的に関与するようになった。

 ここで思うのが、これと同様に、父母会がコミュニティを代表するものといえるかどうか、その構成を、コミュニティ内の様々な経済・社会層の存在と、その力関係の実態と照らし合わせてあらかじめ鑑み、住民参加の活動を発展させることが、必要だったのかもしれない。Jo de Berryは、そのペーパーの結論において、NGOが、プロジェクトの裨益者である住民達に関する簡単な民族学的調査を行ったり、既存の調査や情報を活用したりして、まずコミュニティの現実を把握しようとすることが、NGOのコミュニティ・ベースの活動を意味あるものとし、効果を挙げる上で、非常に大切であると主張する。それも、外部者の視点でなく、住民自身によるemicな視点から、コミュニティの現実を浮き上がらせるものでなくては、意味がないと言う。

 Jo de Berryのペーパーは、グァテマラのプロジェクトの住民参加の側面に関しても、幾つかの有益な示唆を私に与えてくれた。父母会が果たしてコミュニティ全体の住民参加を促進しているかどうか充分配慮し、参加に不均衡がないようなプロジェクト活動形態を整えることが必要であると、遅ればせながら認識を強めた次第である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.05.16

Seeing is believing(2)-rainbow nation(工藤 真友美)

 南アフリカという国は、Nelson Mandela元大統領が「rainbow nation」 といったように、様々な人種が共存する、多民族国家である。アパルトヘイトの黒人差別で有名なために、白人と、黒人、という2種類に分けてしまいがちだが、黒人でも、20種類以上の民族がいるといわれているし、白人でも、アフリカーンス、ドイツ系、イギリス系などがいる。アフリカーンスとは、オランダ系の移民で、大航海時代に貿易のために、その後の植民地化によってやってきたオランダ人の子孫である。長い間、彼らは独自の文化を築き、南アフリカの「white tribe」ともいわれるほど、南アフリカを代表する、民族である。また、アパルトヘイトの対象にもなっていた、インド系、また、白人と、黒人とのハーフのカラードと呼ばれる人達もいる。

 私が行っていた現地の高校は全人種がいる、ミックスの学校であった。南アフリカの学校はアパルトヘイトの名残で、イギリス系のみの学校、アフリカーンスのみの学校、黒人のみの学校と分けてある。最近はミックスの学校も増えているようだ。また、私のいた町は小さいので、学校があまりないために、ミックスに、といった理由もあったと思う。登校初日、日本の、日本人しかいない環境に慣れていた私は、その様子が未知の世界にうつった。聞こえてくるのは、今までまったく聞いたことない言葉。いろんな人種の人がいて、面白いと思ったのだが、やはり目に付いたのは、白人と黒人の間に見えない線が引かれていることだった。昼休みに中庭で集まるのは白人同士、黒人同士で、ミックスしている人たちをみるのはまれである。私の場合、いつもよく一緒にいた親友は、インド人の子、カラードの子、イギリス系の子、そして、ズールー族(私のいた地域に多い、黒人の民族のひとつ)の子であったので、私たちのグループはある意味で浮いていたようだった。

 当時、アパルトヘイトについてよく知らず、多民族国家で、みんな仲良く交じり合って生活している図を思い描いていた私には、衝撃的な事実であった。目の前に広がる光景は、私が日本にいたら、見ることができなかった現実であった。日本人として、育った私には、人種の壁というものが、いまいちよく理解できなかったのである。しかし、だからこそ、その、壁がない分、この一年間に人種にこだわらずにいろいろな人と、出会うことができたのだとも思う。

 アパルトヘイト廃止から10年たった今、人種差別はなくなったのだろうか?私が南アフリカにいた当時、(2000-2001)少なくとも、表面的には、改善はされているような気がした。少なくとも、白人が、黒人に対してもっと、オープンになっているし、なにより、法的な、システム的な差別は廃止された。しかし、私は平等な社会になったとはまだ思えない。人々の文化的、歴史的といった深い部分での価値観はあまり、変わっていないような気がした。南アフリカの人々のホスピタリティは素晴らしい。小さな田舎町であったため、出会った留学生は一人であったし、アジア人も、雑貨店を営む中国人の一人であった。日本人とはたまたまビジネスできていた会社員の人としか会っていない。町の人々はお互いよく知り合っていて、新参者の私はその中に溶け込めるかどうか不安だったが、そんな私にすごくよくしてくれたし、言葉もわからないのに、親切にしてくれた。I am a part of communityという感覚が留学してから2,3ヶ月程度でもうできていた。だからこそ、強く残る疑問がある。「部外者」である私に対して、よくしてくれるのに、どうして、同じ国に住む人々に対しての対応が違うのだろうか?この疑問が1年間の留学生活ずっと残り続けた。それが、今、私が大学で副専攻している、人種差別と、民族紛争についての勉強するきっかけにもなったのである。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2004.05.09

途上国でインターンを受け入れる(1)-インターンの効果的な受け入れ方 (畑島 宏之)

 私は途上国に本部を置く国際機関に勤務していた。アフリカの熱帯地方の7月8月は涼しい時期になるのだが、その夏の風物詩のひとつが「サマーインターン」であった。一般職員が休暇に入り、静かになったころ、見慣れない若者の数が増える。国際機関の予算削減と組織のリストラのなか、給料を払ってインターンを受け入れる余裕がなかった。よって、インターンを「無給」でしか受け入れざるをなかったのだが、それでも非常に意欲がある優秀な学生に恵まれたのは幸いだった。これまで延べ20人ほどのインターンの採用や、直接自分の監督のもとにおいて仕事をした経験から、「途上国」の環境で(特に無給)インターンを受け入れるにあたって苦心したことをご紹介したい。

1)候補者の選抜

 人事部からきた履歴書からインターンを選んでいくのが最初の作業だ。インターンが無給とはいえ、大量の応募がある。そのなかで、適任者を数名、探すことになる。しかし、無給なのでいくらでも採用できるかといえばそうではない。事務所のスペースやコンピュータの数にも限りがあり、またスタッフがきちんと監督できる人数にも限度があるのだ。無給だからといって雇う側がコストをまったく払わないわけではない。むしろ、無給だからいろいろ気を遣う点が多い。

 私の職場では事務所のインフラの都合上、採用できるインターンの数は一度に二人まで。それを考え、履歴書から候補者のスキル、意欲、態度、興味を読み取っていく。選考の上で最大のポイントはインターンとWin-Win関係が構築できるかどうかということだった。インターンの欲しているものと、こちらがやってほしいこととの折り合いが可能かということだ。自分の研究をやりに来たいといういうような候補者は選ぶ気になれない。やはり、何を自分が貢献でき、学ぶ意欲があり、さらに自らの学業や将来の仕事にインターンをどう結びつけたいかということがわかるような履歴書やカバーレターは興味深く読む。その中で、こちらが求める仕事ができそうなスキルや経験をもっている人で、インターンをすることで付加価値がつくような人(途上国での経験や実務経験など)を選ぶようにしていた。

2)適切な仕事のパッケージング

 インターンを受け入れると決まったら、考えなければいけないのが、具体的にどういった仕事をさせるか、ということだ。インターンがいるのは2-3ヶ月、仕事といってもその限られた期間やインターンのスキル・能力にあわせた「パッケージ」を用意しなければいけない。それも自分たちの業務プログラムのなかから、ひとつまとまったプロジェクトとしてまとまったものを。さらに、いくらやってほしい仕事とはいえ、あまり単純労働にならないようなものにしなければいけない。そうでないと相手のモチベーションを維持できない。さらに、結果物をレポートやプレゼンテーションとして最終的に形になるような仕事、というのも考慮している。そうすることによって、勤務が終了した後、持ち帰れる成果物ができることになり、インターンが責任とやる気と持つことができる。

 そのようなパッケージを作ることは結構しんどい。とくに、自分の仕事の一部分を切り取り、それを外から来た学生が飲み込めるくらいのパッケージにするというのは手間がかかる。組織のやり方がある程度わからなくても情報収集でき、分析できるというところまで持っていくのも戦略的にやる必要がある。ただ、それくらいの準備をしないと、短期的にやってくる無給のインターンがこちらの仕事に貢献してもらうということはむずかしい。給料が払えないならそれ以外のインセンティブを用意しないといけないのだ。

3)適切なフォローアップ

 また、インターンに仕事をあたえ、そのままにしておくのはよくない。まず、インターンに特定の仕事が自分の部署や組織、そしてさらに大きなIssueなどとの関連を十分説明しておく必要がある。そのためには、業界のトレンドや最新の議論などとも関連付けしつつ、インターンの作業が全体にどう貢献するか説明し理解してもらう。また、いろいろな機会をもってフォローアップしておくのも大事だ。そのためにもインターンでも部署のミーティングで報告させたり、チームの一員として参加させることをさせなければいけない。忙しい中インターンの相手をするのは結構大変だが、やるのとやらないのとではぜんぜんインターンの態度や成果は異なってくる。

 こう書いてきて、「途上国」でのインターンと先進国でのインターンとどう違うのかと問われそうである。基本的なマネジメント、モチベーションなどはまったく違わないと思う、しかし重要な違いは、「途上国」特有の困難に立ち向かえるかということだろうか。インフラも悪いし、基本的なことでさえ思ったとおりいかない事も先進国の比ではない。組織の予算もあまりないので、職員にさえもPCや電話などが行き渡らないときがある。そのようなときにもenjoyし、健康で仕事ができるのが一番重要だと思う。また、そうできる環境をできるだけ準備できるようにする、というのが途上国でインターンを継続して受け入れるための必要条件だと思う。

次回は、私が見た「途上国で成功するインターンの資質」とは。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2004.04.11

原色でNGOを見て (松尾 沢子)

 以前JICAの実務でNGOと関わっていたときは、一つ一つの団体と付き合うというより、本邦のNGOセクター全体を相手に新しい事業を立ち上げていたので、NGO内部事情や個々人の生の意見というものにはさほど触れる機会がなかった。

またロンドン大学でNGOマネジメントの修士課程を履修していたときも、NGO出身のクラスメイトと互いの経験を話し合ったが、お互いの現場を実際にみていないので、なんとなく分かったような気になって一年が過ぎてしまった感がある。

そんな私にとって今回バングラデシュNGOのBRACでインターンをするということを決めたとき、一番楽しみだったのはこの有名なNGOで実際に働いている人と出会えるということだった。実際に現場で働いているNGOスタッフと日常的に話をし、彼らがどんなことを考えながら暮らしかつBRACで働いているかを垣間見ることは、いわば白黒の無声映画を音声付カラー映像でみるような経験である。つまりそれまでは文献を通じて役者が何をしているのかは理解できても、実際の役者(BRACスタッフ)の声を聞き、彼らが立ち回るセット(バングラデシュ)をありのままの姿で見ることがなかったからだ。

バングラデシュでは初対面の人との会話は往々にして兄弟姉妹の数、既婚・未婚、出身地から始まる。私も昨年秋に当地にきてから数えられないくらいこのやり取りをして、今は聞かれる前から話してしまうこともある。最初はこのやり取りが苦痛だったが、ある時からこれはBRACスタッフなりその他NGO関係者のことを知るのに使えると気づき、逆にこちらから出身地や両親の仕事、兄弟姉妹の就職状況、NGOで働いていることに対する親戚内の意見などを根掘り葉掘り聞くようになった。

 きちんと集計はとっていないが、私がよく話をするBRAC歴10年以上の層の傾向として、教育関係に従事する両親を持つ人が多い、土地持ち、長男長女は少ない、夫婦共働きが多い(ダッカの本部の場合。地方事務所ではあまり聞かなかった)といったことがあげられる。

 兄弟皆NGO勤務というケースもあれば、金にならないNGO勤めをビジネスマンの兄弟に笑われている人もいる。総じてみな子供の教育に熱心で、自分自身も機会があれば留学したいので、とりあえず日本に行く方法を教えてくれと聞いてくる。多くのNGOスタッフと同じく職場では政治の話はしたがらず、昨今の政党政治の激化については諦観している模様。

 見聞きするにつれ、これらの個別の「色」の下にはBRACへの就職動機という下塗りの色があることも見えてきた。彼ら自身は貧困層の出身ではなく、自らの状況を変えるというよりも、バングラデシュ独立後の社会の発展に貢献したいという意欲を持ち、硬直した政府機関よりもBRACを選んだ人々のようだ。昔は修士を持っている人を採用する傾向が強かったことを反映して、海外留学は稀であってもみな高学歴で、個人間で程度の差はあれ、社会規範を守り、男女平等や環境配慮といった現代国際社会の常識を実践しようという気持ちがある人々の集まりのように見受けられる。

 他方、若い世代は違ったタイプの「色」を持っている。一つのキャリア形成の手段としてBRACへの就職を割り切っていて、実際数年後にやめていく。BRACがバングラデシュ社会から優良就職先として認知されていること、また海外の組織でも通用するネームバリューに魅かれて、開発関係に限らず国際的に働きたい彼らの多くは履歴書に「BRAC勤務経験あり」と書けることを喜んでいる。

 また世代を問わず、結局は自分の地域の開発に直接関わりたいとBRACを退職してNGOを立ち上げる人もいれば、BRACという大組織の中でしかれたレールの上を走るだけでは自己実現が難しいからと、地方の中規模NGOへ転職する人もいたりとBRACとの関わり方は十人十色である。

 どのようにこれらの違った色は作られるのか。BRACという組織のなかでこれらの色が油絵のように重ねて塗られることで、既存の体制を覆い隠す新しい構図が生まれるのか。こんな問いかけが関係者と話すにつれ、組織体としてのBRACの今後について生まれてきた。また、より広く諸外国のNGOで働く人々のもつ色と描かれる絵と、日本の場合との比較研究も、市民参加を推進するJICA職員として、また私個人の関心として、取り組んでみたいとも考え始めている。

筆者は休職中JICA職員。当コラムは発表者個人の見解であり、所属先の立場を述べたものではない。筆者プロフィール

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2004.03.28

ネパール人女性にとっての識字(岩岡 いづみ)

(前回のコラム「コーディネーターの役割」)
 "ネパリホ(ネパール人ですか)?" "ホイナ。ジャパニホ。(いえ、日本人です)""タパイコ ナム ケホ(名前なんていうの)?""インディラ マハルジャン"とネパール名を言っては相手を混乱させるのがちょっと楽しかったりしたネパールでの半年間。口を開かなければ私たち日本人もネパール人とそっくりだ。そんなネパールで私は識字プログラムへの参加を通じての女性の意識化とエンパワーメントの相関性について研究していた。

 ネパールという国は北部の山岳地帯、中部の丘陵地帯、南部の平野地帯と地形的にも変化に富み、かつそれぞれの地域に住む民族も全く異なる。ネパールのカースト・民族は60以上あるともいわれており、北部にはモンゴロイド系の民族が多く住み、南部にはアーリヤ系民族が多い。人口の約半分が母国語であるネパール語をしゃべり、残りの多くの民族ではネパール語に加えてそれぞれ独自の言語を使用している。ネパールの識字率は41.7%といわれ、ほかの南アジア国と同様に女性の教育レベルは男性よりずっと低い。59.4%の男性が識字者であるのに対し、女性はわずか24.0%である。

 この低識字率の裏には民族の多様性がまず挙げられる。政府はネパール語の普及により国を統一に持っていきたいものの、ネパール語を母国語としない民族がそれによって劣等感にさいなまれるという現実とのジレンマに陥っている。また女性に対する教育の重要性が社会的に認知されにくい現状が挙げられる。ヒンズー教の影響を強く受けた高カーストであるバフンやチェトリ、またネワール族などでは初潮を迎えた少女は穢れた者として扱われ部屋に閉じ込めたりする風習があるようである。身体の自然な現象を大人の仲間入りとして祝福されることはおろか、このような風習から女性は幼い時から自分自身を恥じるように育ってしまう。いずれはよその家の所有物になる女性に教育の機会を与えることは時間と金銭的な無駄にほかならないとみなされ、このような社会的地位の低さから教育を全く受ける機会がなかった女性はあまりにも多い。

 その中である識字教育を受けた女性たちと話して感じたのは、読み書き能力自体もさることながら識字プログラムを通して得られた自信が彼らの新しい原動力になっているように思えた。リサーチでインタビューした中で最高齢の70歳の女性はこう語ってくれた。「以前は娘に会いに行くのに息子に連れて行ってもらっていたが、ついこの間は一人でインドにいる娘に会いに行くことができた。どのバスに乗ればいいか分かるし、途中で自分がどこにいるかわかる。それに自信がでてきたから。」配偶者を何年も前に亡くし、その印として額に付けられた黄色いティカと前歯のない笑顔がとても印象的だった。
バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.03.14

Seeing is Believing(1)―南アフリカ留学のきっかけ (工藤 真友美)

 このコラムを書くことになったきっかけは、杉原さんと、DCフォーラムのイベントで出会ったことだった。杉原さんは以前、ジンバブエに行っていたこともあるので、アフリカの話で盛り上がっていた。というのも、私自身、南アフリカ共和国に高校時代一年間留学していたことがあり、なんとなく懐かしさを覚え、当時の興奮を誰かにわかってもらえるのがうれしかったのもあった。同郷のよしみというわけではないが、なんだか、アフリカに対する共通のフィーリングがあるような気がした。

 アフリカにいってボランティアがしたい、開発の仕事をしたい、そう望む学生は結構周囲にいるみたいだが、今まで、あまり、アフリカでの体験談を人に話す機会というのが少なかった。せかっく頂いたこの機会に、このコラムを通して、現地に行って感じたことや、アフリカの生活などを伝えていきたいとおもう。開発に興味をもった原点としての南アフリカでの経験を通して、今、実際大学で学んでいることなどと関係させての問題提起などもしていけたらいいと思っている。

 まず、そもそも、なぜ高校留学ではアフリカに留学することになったから、はじめたいと思う。だれもが、まず、留学していた場所をきいて、はて?という顔をする。高校留学として、アフリカはマイナーだからであろう。現に高校留学で南アフリカに留学したことがある人に、過去3,4人しか会ったことがない。(いずれも同機関で留学した先輩または、後輩)私がお世話になったのは、ロータリークラブ主催の青少年交換プログラムというもので、各県のロータリークラブが毎年学生を各国のロータリークラブに1年間送り出すというものだった。日本からでて、外の世界をみることを望んでいたので、とりあえず、希望国をメジャーであるアメリカにした。各県によって、提携している地域が違うため、希望は出せても、提携国との調整が必要なので、最終的には委員会の方で派遣国を決めるということだった。私は、第三希望に、まさか行くことになるとは思わずに南アフリカと書いておいた。(アメリカは派遣人数が多いためにもれることがないとい予想のもと)そして、派遣国発表の日。委員長はアフリカと言った。アメリカの間違いでは?と耳疑ったが、間違いではなく、一字違いのアフリカであった。

 とりあえず、留学することは決まっていたので、今さらやめたくもなかった。もちろん、ここでやめることはできたが、反対していた母親を一ヶ月かかって説得した上で承諾してもらった留学であったので、ここで身を引くわけにはいかなかった。初の海外体験であったため、「アメリカでもアフリカでも日本からみて、異国であるには違いない。」と割り切り、アフリカに行く覚悟を決めた。半分は、未知への好奇心があったのかもしれない。TVや本で見る、大自然?野生の動物?部族?これくらいのステレオタイプな知識しかなかった私が、まったく未知の国、南アフリカに行くことになった。後から考えてみれば、人生の宝になるような素晴らしい体験ができた、貴重な一年間であった。何も知らないで行ったことで、戸惑いも大きかったが、その分よけいな偏見を持たずに現地の生活ありのままを体験できたと思う。TVや本では知ることができない、realityの世界を。この目にしっかりと焼き付けてきた。それと同時に私の心にさまざま疑問を投げかけてくる体験の連続であった。委員長のチョイスは正しかったと思う。少なくとも彼がったように、どこにいってもサバイバルできるバイタリティと根性はついたような気がした。
筆者紹介

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.03.08

ドナーの事情と農村開発プロジェクト支援 (杉原 ひろみ)

(前回のコラム「米国のチャリティ事情から何が学べるか?(3)-米国ユナイテッド・ウェイのスキャンダルから考える-」)
 1月19日、および3月1日付けコラムで、岩岡いづみさんがジンバブエの農村で教育開発プロジェクトを手がけた時の模様を振り返っている。私は当時、ジンバブエ大使館専門調査員の仕事の中で、NGOや現地コミュニティが実施機関となって行う農村開発プロジェクト(草の根無償資金協力)の発掘・支援業務が一番難しいと感じていた。そんな時、岩岡さんと出会った。あれから4年。現在、私はワシントンDCに暮らしている。ここは世界銀行、国際通貨基金、米国開発援助庁(USAID)本部があり、開発援助政策・戦略が決定されている。また、多くのアメリカ開発NGOも本部を置いている。フィールドにいる時にはわからなかった本部の論理や他の国際機関・NGOの内部事情を知り、月日が流れて初めて、当時の仕事について距離を置いて考えられるようになった。改めてなぜ草の根無償プロジェクトの発掘・支援が難しかったのか考えてみる。

●政府開発援助(ODA)が抱えるジレンマ
 日本に限ったことではないが、一般に日本のODAの場合、(1)単年度予算で、計上された予算を消化しなければ次年度予算が削減される、(2)プロジェクトの予算規模が大きいほど歓迎される傾向にある、そして(3)プロジェクトの予算規模の大小に関係なく、かかる事務作業量が同じである、という論理が働く。

 その結果、(1)の場合、予算執行の舵取りが難しい。日本の予算は4月に始まり、翌年3月に終わる。NGOやコミュニティが行うプロジェクトでも規模が大きい場合、DFIDやUSAID、国際NGOなど他のドナーとの協調が必要である。しかし、日本のODAの予算サイクルが彼らと合致しないため、その調整が難しかった。また、援助の受け手もそうしたドナー側の事情をなかなか理解しないものである。さらに、農村開発プロジェクトの進行は、乾季か雨季かといった気候の問題や、当地の政治・経済・社会状況に大きく左右されるが、それを外務省の予算サイクルと調整するのが難しかった。

 (2)の場合、一般無償資金協力の予算規模が億円単位なのに対し、草の根無償資金協力は百万円単位である。「決められた予算をきっちり消化する」ことで評価される役所の感覚からすれば、草の根無償業務に多くの時間と労力を投下することに対する理解が、大使館内でなかなか得られなかった。

 (3)は、純粋に開発協力のあるべき姿を追求すれば、ドナーはプロジェクト実施に必要な予算を必要なだけ支援するのが妥当なのかもしれない。それがたとえ1万円だろうが、1,000万円だろうが。しかし、1万円のプロジェクト支援の場合であっても、予算執行にかかるペーパーワークその他が1,000万円のプロジェクトの1000分の1で済むわけではない。また、年度末で予算が余っていれば、少しでも多くのお金を農村に還元したいという気持ちから、援助の受け手にプロジェクト予算規模の拡大や縮小を提案するのもやむを得ないと思うのはドナー側のエゴだろうか。

●草の根無償資金協力の特殊性
 外務省が行う他の資金協力は、本省が主導権および決定権を持っているのに対し、草の根無償は多くの場合、現地の日本大使館の裁量でプロジェクト支援が実施できるため、極めて柔軟性のあるスキームだった。しかし、当時、大使館内の会計項目に草の根無償のためだけの案件審査・モニタリング予算はなく、他の業務予算との調整が必要であった。草の根無償の場合、外務本省との契約で働く私のような専門調査員や、他省庁からの出向者が担当することが多いため、大使館全体としての業務の優先度が必ずしも高いとは言えず、また、予算調整・確保が難しかった。

 第二の特殊性として、一般無償が中央政府を相手にするのに対して、草の根無償は、地方政府やNGOや現地コミュニティなどを相手に資金協力を行うため、現地の状況やプロジェクトに関わる全てのアクターの動きに精通していなければプロジェクト失敗のリスクが極めて高くなる。そのため失敗を避けるためには十分な審査・モニタリングが必要だった。しかし、外務本省と大使館の構造や力関係、「農村開発」としての草の根無償、の双方を理解できる調整員がいなかったため、そうした特殊性について理解してもらうのに莫大なエネルギーを要し、草の根無償で農村開発インパクトを得るための仕事に時間とエネルギーを十分に割けなかった。

●ドナーとNGOとの関係
 私は、NGOやコミュニティ代表に対し、プロジェクト実施の仲介者やファシリテーターとなって、全てのアクターの調整役を担い、かつ予算管理責任を負う自覚と責任、そして最後までプロジェクトをやり遂げる実行力を期待していた。草の根無償で資金協力をする際の審査項目として、こうした役割を担えるか否かが、時としてプロジェクト・プロポーザルの内容そのものより重要であった。しかし、ジンバブエでは私が期待するような働きをしてくれる仲介者・ファシリテーターに出会うことは稀であった。

 また、現場ではさまざまな予期しないアクターの利害関係が複雑に入り乱れ、草の根無償によるプロジェクト支援に向けて話し合う相手と、紙面(プロジェクト・プロポーザル)上の組織・責任者、そして実際とが異なることが往々にしてあり、通信や道路インフラがよくないジンバブエで、プロジェクト毎にアクターの数や力関係を把握するのは大変な仕事であった。
バックナンバー
参考文献
●杉原ひろみ「草の根無償資金協力におけるパートナーシップ-ジンバブエを事例に-」『国際開発研究』第10巻第2号(2001年)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.03.07

コーディネーターの役割 (岩岡 いづみ)

(前回のコラム「現地ニーズとドナーの都合」 筆者紹介
 一校一校が遠く、でこぼこの道をジープで何時間もかけて移動、調査という作業を経て、最終的に私たちは大使館へプロポーザルを無事提出した。しばらくして、杉原氏から二人用の机と椅子850セットと教科書8000冊のプロポーザルが承認されたとの連絡をいただいた。そればかりでなく元々資金協力は400万円を上限にという話だったが、プロポーザルを見てもっと額を増やしてもいいとの連絡をいただいた。

 このプロポーザル作成から署名式に至るまでの作業においては様々な苦労を強いられた。まず時間の感覚の違い。私のボランティアプログラムは一年間のプログラムであったので私がジンバブエに残れる期間は限られていた。その間になんとかプロポーザルを提出して私ができるところまではコーディネーター役を務めたいと私自身も思っていたし、大使館でもそれを望んでいた。杉原氏からはプロポーザルは様々なNGOから山のように来るが、まともなプロポーザルを書けるNGOが少ないこと、信用できるNGOを見極めることが難しいことを聞かされており、大使館側にとっても私のような大使館と現地を取り持ってくれる人間がいるということはありがたいということだった。そのため杉原氏も私が帰国する前にできるところまで作業を進めるために尽力してくださったのだが、効率性を求めるとジンバブエ人には「何をそんなに焦ってるんだ?」と映る。「マネル(夕方)に待ち合わせ」と言われてとりあえず4時くらいから待つとする。でも誰も来ない、なんてことはしょっちゅうある話なのだ。大使館と私が要求するスケジュールとジンバブエ人の時間の流れの間に挟まれっぱなしだった。

 日本では当たり前のことがジンバブエ人には「そんなに大事なことなの?」程度にしか思われず、日本大使館の側から反感を買われることもあった。署名式当日、草の根無償資金協力契約の代表であるlocal governmentのマドゥユ氏は何を思ったのか文部省の代表を先に車に乗せ、自分は署名式に一時間以上も遅れてやってきたのである。署名式に一番重要な人物が遅れ、いてもいなくてもどうでもいい人物を先に送ってこられたことに私は我が目を疑った。大使館の方ではメディアを呼んでいたし、大使のスケジュールというものもある。これまでプロポーザルの準備、作成を協力してやってきたマドゥユ氏を最終的に最も信用できかつ契約締結者としてふさわしいと私が判断し、大使館にもこの人なら大丈夫です、と太鼓判を押していただけに、全く大使館に合わせる顔がなかった。幸い話がボツにならずに済んだものの、来たメディアの数は半減した。署名式終了後、マドゥユ氏を詰問したところ、「いや、車がこなかったものだからどうしようもなくて。」と相変わらずジンバブエ式に「ソリソリソリソリ (Sorry)」を繰り返した。署名式当日、発熱して顔を真っ赤にしていた私の顔はますます赤くなり怒りを通り越して呆れ返ったが、彼からしてみたら自分より地位の高い文部省の代表を先において自分がくるなんて考えられなかったのかもしれない。

 コーディネーターとして大使館とlocal governmentのやり取りがスムースに行くようにやってきたつもりだったが、自分が短期間で成果を残したいという気持ちが強すぎたのではなかったか。マドゥユ氏にもっといろいろ任せて自分はあくまでもコーディネーターとして脇役に徹することこそ、長期的に見れば地域のためになったのではなかったか。ドナーが要求していることは何か、それを満たすにはどうすべきかlocal governmentにはプレッシャーをかける必要があったし、大使館側にはlocal government側の都合をできるだけ分かってもらえるように説得する必要があった。数々のジレンマの中で苦悶を強いられたことも多々あったが、双方にとって最も有益に働くよう調整することはどういうことかを学ぶことができたのは、本当に大きな収穫となった。

 署名式までは滞在中に漕ぎ着けたものの、寄贈品の納入を待たずに帰国日を迎えてしまった。帰国して半年経って、杉原氏から無事納入されたとルシンガから連絡があったと伺ったが、連絡網の乏しいルシンガに日本からそれ以上状況を聞き出すことはできなくなってしまった。今も切に願うのはあの机、椅子、教科書と共に元気に学ぶ子供たちの姿のみである。 (完)
バックナンバー

| | Comments (0) | TrackBack (0)