2015年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

トップページ | 2004年4月 »

2004年3月

2004年3月28日 (日)

ネパール人女性にとっての識字(岩岡 いづみ)

(前回のコラム「コーディネーターの役割」)
 "ネパリホ(ネパール人ですか)?" "ホイナ。ジャパニホ。(いえ、日本人です)""タパイコ ナム ケホ(名前なんていうの)?""インディラ マハルジャン"とネパール名を言っては相手を混乱させるのがちょっと楽しかったりしたネパールでの半年間。口を開かなければ私たち日本人もネパール人とそっくりだ。そんなネパールで私は識字プログラムへの参加を通じての女性の意識化とエンパワーメントの相関性について研究していた。

 ネパールという国は北部の山岳地帯、中部の丘陵地帯、南部の平野地帯と地形的にも変化に富み、かつそれぞれの地域に住む民族も全く異なる。ネパールのカースト・民族は60以上あるともいわれており、北部にはモンゴロイド系の民族が多く住み、南部にはアーリヤ系民族が多い。人口の約半分が母国語であるネパール語をしゃべり、残りの多くの民族ではネパール語に加えてそれぞれ独自の言語を使用している。ネパールの識字率は41.7%といわれ、ほかの南アジア国と同様に女性の教育レベルは男性よりずっと低い。59.4%の男性が識字者であるのに対し、女性はわずか24.0%である。

 この低識字率の裏には民族の多様性がまず挙げられる。政府はネパール語の普及により国を統一に持っていきたいものの、ネパール語を母国語としない民族がそれによって劣等感にさいなまれるという現実とのジレンマに陥っている。また女性に対する教育の重要性が社会的に認知されにくい現状が挙げられる。ヒンズー教の影響を強く受けた高カーストであるバフンやチェトリ、またネワール族などでは初潮を迎えた少女は穢れた者として扱われ部屋に閉じ込めたりする風習があるようである。身体の自然な現象を大人の仲間入りとして祝福されることはおろか、このような風習から女性は幼い時から自分自身を恥じるように育ってしまう。いずれはよその家の所有物になる女性に教育の機会を与えることは時間と金銭的な無駄にほかならないとみなされ、このような社会的地位の低さから教育を全く受ける機会がなかった女性はあまりにも多い。

 その中である識字教育を受けた女性たちと話して感じたのは、読み書き能力自体もさることながら識字プログラムを通して得られた自信が彼らの新しい原動力になっているように思えた。リサーチでインタビューした中で最高齢の70歳の女性はこう語ってくれた。「以前は娘に会いに行くのに息子に連れて行ってもらっていたが、ついこの間は一人でインドにいる娘に会いに行くことができた。どのバスに乗ればいいか分かるし、途中で自分がどこにいるかわかる。それに自信がでてきたから。」配偶者を何年も前に亡くし、その印として額に付けられた黄色いティカと前歯のない笑顔がとても印象的だった。
バックナンバー

2004年3月14日 (日)

Seeing is Believing(1)―南アフリカ留学のきっかけ (工藤 真友美)

 このコラムを書くことになったきっかけは、杉原さんと、DCフォーラムのイベントで出会ったことだった。杉原さんは以前、ジンバブエに行っていたこともあるので、アフリカの話で盛り上がっていた。というのも、私自身、南アフリカ共和国に高校時代一年間留学していたことがあり、なんとなく懐かしさを覚え、当時の興奮を誰かにわかってもらえるのがうれしかったのもあった。同郷のよしみというわけではないが、なんだか、アフリカに対する共通のフィーリングがあるような気がした。

 アフリカにいってボランティアがしたい、開発の仕事をしたい、そう望む学生は結構周囲にいるみたいだが、今まで、あまり、アフリカでの体験談を人に話す機会というのが少なかった。せかっく頂いたこの機会に、このコラムを通して、現地に行って感じたことや、アフリカの生活などを伝えていきたいとおもう。開発に興味をもった原点としての南アフリカでの経験を通して、今、実際大学で学んでいることなどと関係させての問題提起などもしていけたらいいと思っている。

 まず、そもそも、なぜ高校留学ではアフリカに留学することになったから、はじめたいと思う。だれもが、まず、留学していた場所をきいて、はて?という顔をする。高校留学として、アフリカはマイナーだからであろう。現に高校留学で南アフリカに留学したことがある人に、過去3,4人しか会ったことがない。(いずれも同機関で留学した先輩または、後輩)私がお世話になったのは、ロータリークラブ主催の青少年交換プログラムというもので、各県のロータリークラブが毎年学生を各国のロータリークラブに1年間送り出すというものだった。日本からでて、外の世界をみることを望んでいたので、とりあえず、希望国をメジャーであるアメリカにした。各県によって、提携している地域が違うため、希望は出せても、提携国との調整が必要なので、最終的には委員会の方で派遣国を決めるということだった。私は、第三希望に、まさか行くことになるとは思わずに南アフリカと書いておいた。(アメリカは派遣人数が多いためにもれることがないとい予想のもと)そして、派遣国発表の日。委員長はアフリカと言った。アメリカの間違いでは?と耳疑ったが、間違いではなく、一字違いのアフリカであった。

 とりあえず、留学することは決まっていたので、今さらやめたくもなかった。もちろん、ここでやめることはできたが、反対していた母親を一ヶ月かかって説得した上で承諾してもらった留学であったので、ここで身を引くわけにはいかなかった。初の海外体験であったため、「アメリカでもアフリカでも日本からみて、異国であるには違いない。」と割り切り、アフリカに行く覚悟を決めた。半分は、未知への好奇心があったのかもしれない。TVや本で見る、大自然?野生の動物?部族?これくらいのステレオタイプな知識しかなかった私が、まったく未知の国、南アフリカに行くことになった。後から考えてみれば、人生の宝になるような素晴らしい体験ができた、貴重な一年間であった。何も知らないで行ったことで、戸惑いも大きかったが、その分よけいな偏見を持たずに現地の生活ありのままを体験できたと思う。TVや本では知ることができない、realityの世界を。この目にしっかりと焼き付けてきた。それと同時に私の心にさまざま疑問を投げかけてくる体験の連続であった。委員長のチョイスは正しかったと思う。少なくとも彼がったように、どこにいってもサバイバルできるバイタリティと根性はついたような気がした。
筆者紹介

2004年3月 8日 (月)

ドナーの事情と農村開発プロジェクト支援 (杉原 ひろみ)

(前回のコラム「米国のチャリティ事情から何が学べるか?(3)-米国ユナイテッド・ウェイのスキャンダルから考える-」)
 1月19日、および3月1日付けコラムで、岩岡いづみさんがジンバブエの農村で教育開発プロジェクトを手がけた時の模様を振り返っている。私は当時、ジンバブエ大使館専門調査員の仕事の中で、NGOや現地コミュニティが実施機関となって行う農村開発プロジェクト(草の根無償資金協力)の発掘・支援業務が一番難しいと感じていた。そんな時、岩岡さんと出会った。あれから4年。現在、私はワシントンDCに暮らしている。ここは世界銀行、国際通貨基金、米国開発援助庁(USAID)本部があり、開発援助政策・戦略が決定されている。また、多くのアメリカ開発NGOも本部を置いている。フィールドにいる時にはわからなかった本部の論理や他の国際機関・NGOの内部事情を知り、月日が流れて初めて、当時の仕事について距離を置いて考えられるようになった。改めてなぜ草の根無償プロジェクトの発掘・支援が難しかったのか考えてみる。

●政府開発援助(ODA)が抱えるジレンマ
 日本に限ったことではないが、一般に日本のODAの場合、(1)単年度予算で、計上された予算を消化しなければ次年度予算が削減される、(2)プロジェクトの予算規模が大きいほど歓迎される傾向にある、そして(3)プロジェクトの予算規模の大小に関係なく、かかる事務作業量が同じである、という論理が働く。

 その結果、(1)の場合、予算執行の舵取りが難しい。日本の予算は4月に始まり、翌年3月に終わる。NGOやコミュニティが行うプロジェクトでも規模が大きい場合、DFIDやUSAID、国際NGOなど他のドナーとの協調が必要である。しかし、日本のODAの予算サイクルが彼らと合致しないため、その調整が難しかった。また、援助の受け手もそうしたドナー側の事情をなかなか理解しないものである。さらに、農村開発プロジェクトの進行は、乾季か雨季かといった気候の問題や、当地の政治・経済・社会状況に大きく左右されるが、それを外務省の予算サイクルと調整するのが難しかった。

 (2)の場合、一般無償資金協力の予算規模が億円単位なのに対し、草の根無償資金協力は百万円単位である。「決められた予算をきっちり消化する」ことで評価される役所の感覚からすれば、草の根無償業務に多くの時間と労力を投下することに対する理解が、大使館内でなかなか得られなかった。

 (3)は、純粋に開発協力のあるべき姿を追求すれば、ドナーはプロジェクト実施に必要な予算を必要なだけ支援するのが妥当なのかもしれない。それがたとえ1万円だろうが、1,000万円だろうが。しかし、1万円のプロジェクト支援の場合であっても、予算執行にかかるペーパーワークその他が1,000万円のプロジェクトの1000分の1で済むわけではない。また、年度末で予算が余っていれば、少しでも多くのお金を農村に還元したいという気持ちから、援助の受け手にプロジェクト予算規模の拡大や縮小を提案するのもやむを得ないと思うのはドナー側のエゴだろうか。

●草の根無償資金協力の特殊性
 外務省が行う他の資金協力は、本省が主導権および決定権を持っているのに対し、草の根無償は多くの場合、現地の日本大使館の裁量でプロジェクト支援が実施できるため、極めて柔軟性のあるスキームだった。しかし、当時、大使館内の会計項目に草の根無償のためだけの案件審査・モニタリング予算はなく、他の業務予算との調整が必要であった。草の根無償の場合、外務本省との契約で働く私のような専門調査員や、他省庁からの出向者が担当することが多いため、大使館全体としての業務の優先度が必ずしも高いとは言えず、また、予算調整・確保が難しかった。

 第二の特殊性として、一般無償が中央政府を相手にするのに対して、草の根無償は、地方政府やNGOや現地コミュニティなどを相手に資金協力を行うため、現地の状況やプロジェクトに関わる全てのアクターの動きに精通していなければプロジェクト失敗のリスクが極めて高くなる。そのため失敗を避けるためには十分な審査・モニタリングが必要だった。しかし、外務本省と大使館の構造や力関係、「農村開発」としての草の根無償、の双方を理解できる調整員がいなかったため、そうした特殊性について理解してもらうのに莫大なエネルギーを要し、草の根無償で農村開発インパクトを得るための仕事に時間とエネルギーを十分に割けなかった。

●ドナーとNGOとの関係
 私は、NGOやコミュニティ代表に対し、プロジェクト実施の仲介者やファシリテーターとなって、全てのアクターの調整役を担い、かつ予算管理責任を負う自覚と責任、そして最後までプロジェクトをやり遂げる実行力を期待していた。草の根無償で資金協力をする際の審査項目として、こうした役割を担えるか否かが、時としてプロジェクト・プロポーザルの内容そのものより重要であった。しかし、ジンバブエでは私が期待するような働きをしてくれる仲介者・ファシリテーターに出会うことは稀であった。

 また、現場ではさまざまな予期しないアクターの利害関係が複雑に入り乱れ、草の根無償によるプロジェクト支援に向けて話し合う相手と、紙面(プロジェクト・プロポーザル)上の組織・責任者、そして実際とが異なることが往々にしてあり、通信や道路インフラがよくないジンバブエで、プロジェクト毎にアクターの数や力関係を把握するのは大変な仕事であった。
バックナンバー
参考文献
●杉原ひろみ「草の根無償資金協力におけるパートナーシップ-ジンバブエを事例に-」『国際開発研究』第10巻第2号(2001年)

2004年3月 7日 (日)

コーディネーターの役割 (岩岡 いづみ)

(前回のコラム「現地ニーズとドナーの都合」 筆者紹介
 一校一校が遠く、でこぼこの道をジープで何時間もかけて移動、調査という作業を経て、最終的に私たちは大使館へプロポーザルを無事提出した。しばらくして、杉原氏から二人用の机と椅子850セットと教科書8000冊のプロポーザルが承認されたとの連絡をいただいた。そればかりでなく元々資金協力は400万円を上限にという話だったが、プロポーザルを見てもっと額を増やしてもいいとの連絡をいただいた。

 このプロポーザル作成から署名式に至るまでの作業においては様々な苦労を強いられた。まず時間の感覚の違い。私のボランティアプログラムは一年間のプログラムであったので私がジンバブエに残れる期間は限られていた。その間になんとかプロポーザルを提出して私ができるところまではコーディネーター役を務めたいと私自身も思っていたし、大使館でもそれを望んでいた。杉原氏からはプロポーザルは様々なNGOから山のように来るが、まともなプロポーザルを書けるNGOが少ないこと、信用できるNGOを見極めることが難しいことを聞かされており、大使館側にとっても私のような大使館と現地を取り持ってくれる人間がいるということはありがたいということだった。そのため杉原氏も私が帰国する前にできるところまで作業を進めるために尽力してくださったのだが、効率性を求めるとジンバブエ人には「何をそんなに焦ってるんだ?」と映る。「マネル(夕方)に待ち合わせ」と言われてとりあえず4時くらいから待つとする。でも誰も来ない、なんてことはしょっちゅうある話なのだ。大使館と私が要求するスケジュールとジンバブエ人の時間の流れの間に挟まれっぱなしだった。

 日本では当たり前のことがジンバブエ人には「そんなに大事なことなの?」程度にしか思われず、日本大使館の側から反感を買われることもあった。署名式当日、草の根無償資金協力契約の代表であるlocal governmentのマドゥユ氏は何を思ったのか文部省の代表を先に車に乗せ、自分は署名式に一時間以上も遅れてやってきたのである。署名式に一番重要な人物が遅れ、いてもいなくてもどうでもいい人物を先に送ってこられたことに私は我が目を疑った。大使館の方ではメディアを呼んでいたし、大使のスケジュールというものもある。これまでプロポーザルの準備、作成を協力してやってきたマドゥユ氏を最終的に最も信用できかつ契約締結者としてふさわしいと私が判断し、大使館にもこの人なら大丈夫です、と太鼓判を押していただけに、全く大使館に合わせる顔がなかった。幸い話がボツにならずに済んだものの、来たメディアの数は半減した。署名式終了後、マドゥユ氏を詰問したところ、「いや、車がこなかったものだからどうしようもなくて。」と相変わらずジンバブエ式に「ソリソリソリソリ (Sorry)」を繰り返した。署名式当日、発熱して顔を真っ赤にしていた私の顔はますます赤くなり怒りを通り越して呆れ返ったが、彼からしてみたら自分より地位の高い文部省の代表を先において自分がくるなんて考えられなかったのかもしれない。

 コーディネーターとして大使館とlocal governmentのやり取りがスムースに行くようにやってきたつもりだったが、自分が短期間で成果を残したいという気持ちが強すぎたのではなかったか。マドゥユ氏にもっといろいろ任せて自分はあくまでもコーディネーターとして脇役に徹することこそ、長期的に見れば地域のためになったのではなかったか。ドナーが要求していることは何か、それを満たすにはどうすべきかlocal governmentにはプレッシャーをかける必要があったし、大使館側にはlocal government側の都合をできるだけ分かってもらえるように説得する必要があった。数々のジレンマの中で苦悶を強いられたことも多々あったが、双方にとって最も有益に働くよう調整することはどういうことかを学ぶことができたのは、本当に大きな収穫となった。

 署名式までは滞在中に漕ぎ着けたものの、寄贈品の納入を待たずに帰国日を迎えてしまった。帰国して半年経って、杉原氏から無事納入されたとルシンガから連絡があったと伺ったが、連絡網の乏しいルシンガに日本からそれ以上状況を聞き出すことはできなくなってしまった。今も切に願うのはあの机、椅子、教科書と共に元気に学ぶ子供たちの姿のみである。 (完)
バックナンバー

トップページ | 2004年4月 »