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2004年9月

2004年9月26日 (日)

グァテマラ二言語教育プロジェクトと企業との協力の実例(上岡直子)

 前回の私のコラムは、グァテマラでのNGO向けCSR(企業の社会的責任)にかかるセミナーを紹介したが、当コラムでは、World Learningの二言語教育プロジェクトが、いままでどのように企業と連携を図ろうとしたか、まとめてみたいと思う。

 当二言語教育プロジェクトは、教員養成や教材開発といった技術支援を行うのにあわせ、政府や民間を対象に、二言語教育に関するアドボカシーを行い、先住民に対する教育、そして特に、二語教育に関する支援を広く推進することも、必須な要素みなし、活動を行ってきた。その一環として、企業や企業財団に対しても、先住民の教育に係る問題を伝え、二言語教育の重要さを唱えたり、プロジェクトの経験を発表するセミナーに招待したり、積極的なアプローチをした。その具体的な結果は、いかなるものであったか。

 グァテマラでは、政府・民間に関わらず、非先住民の人々が、先住民に係る事柄や問題に関心を持つことは、一般的にまれである。マヤの言語や文化を教授する二言語異文化間教育となると特に、それがどのような意味で重要なのか理解する人は多くない。ましてグァテマラのビジネス・コミュニティとなると、その殆どが、中・上流階級に属するラディーノ(グァテマラでの非先住民の総称)で構成されている。彼らは全般的に、マヤの二言語異文化間教育に無関心か、それがどのように国の社会経済的発展に役立つのか疑がわしく思っている。なかには、マヤの文化や言語がグァテマラの開発の障害になっていると見なす企業人もいる。二言語教育なら、スペイン語にあわせ、国際化に役立つよう英語、というのが、通常のビジネス・コミュニティでの認識である。

 そんな状況下、プロジェクトが企業に対して、先住民向けにマヤの言語や文化を教授することの重要性を理解してもらい、具体的な支援を得るのは、容易ではなかった。しかし、企業と辛抱強く接触を保っているうちに、ついに教育に特に関心をもつ企業の連合である、Empresario por la Educaciónが、昨年の七月に、当二言語教育プロジェクトに、グァテマラ農村部の教育の現状について発表して欲しいと要請してきた。プロジェクトチームが、先住民が主体の農村部の教育の実態(先住民言語で育った子どもたちが、小学校ではスペイン語で授業が行なわれるため、就業率が悪く、学習効果も限られていること)、また、プロジェクトが先住民の言語を用い教育成果をあげたことを、企業人向けに紹介した。それが参加者何人かの二言語教育に関する関心を喚起し、その数ヶ月後に、これらのEmpresario por la Educaciónのメンバーが、プロジェクトが二言語教育支援をしているキチェ県の小学校を実際に訪問した。これらの企業人は、今まで農村部のそして先住民の子どもたちが通う小学校を訪れる機会などなかったため、学校施設の劣悪さや、教科書が圧倒的に不足している実態に驚きをもったと同時に、プロジェクトが、コミュニティにある資源を利用しながら教師と父兄自身が創った二言語教育教材を活用していることなどに、非常に興味を示した。また、教師が、伝統的な講義スタイルでなく、参加型の教授法を駆使して授業を行い、そのために生徒が楽しみながら生き生きと学んでいる姿も、新鮮だったようである。

 政府に対するアプローチでもそうだが、実際にプロジェクト・サイトを訪ねて活動の実態をみてもらい、土地の人々と話し、またプロジェクト職員の働きぶりに直接触れてもらうことほど、効果的なアドボカシ-はない。この学校訪問の際、訪問した企業の人々は、二言語教育の重要さが初めて分かったと述べ、これからは他の企業に対しても、二言語教育に関心をはらい支援するように勧めたいと述べていた。その後、Empresario por la Educaciónとは共同で、企業の教育支援に関するセミナーを行い、コロンビアやドミニカ共和国から企業を呼んで、事例を紹介してもらったりと、徐徐に協力関係ができあがってきた。

 当二言語教育プロジェクトは、ホテルを含む企業団体から小規模のギフトをもらったりという、寄付の例もいくつかあるが、従来先住民の実態を知る機会がなく、二言語教育やマヤの文化伝統を学習することの意味が分からなかった企業の人々の認識を、少しでも変えることできたというのは、ギフトを得る以上の実績でないかと思っている。

2004年9月19日 (日)

Seeing is Believing(4)―アフリカ開発を考えたとき(後)(工藤真友美)

(前回のコラム:Seeing is Believing(3)―アフリカ開発を考えたとき(前))

 彼女はこの学校をこの地域の公共の場を利用して運営している。運営費はおそらく公共の費用なのだろう。ただ、給料は出ていないそうだ。ボランティアとして、子供達に文字や、計算など教えているのだった。ロータリークラブとしては、そこでまかなえきれない分や食料などを援助していた。その先生は自分はまだまだ若いわよ。といっていた。子供達がいれば、若くいられるのだと。

 peace corpsでアメリカから丘の上の学校の教育指導にきていた人も、たまにこの学校に来て手伝っているらしく、たまたま居合わせた。もちろん、授業はズールー語。ズールー語のアルファベットから始まる。私も一緒になって学んでいて、手伝うというより、邪魔している感じだった。その後は、特別授業で私が折り紙を教えることになった。とはいっても、ズールー語を流暢に話せるわけではないので、先生と助手の人が子供達に通訳してくれていた。それでも子供達は私に直接「これどうするの?」(とおそらくいっているのだろう。)聞いてくるのだ。言葉が通じなくていらいらしていた私にかまわず、子供達は真剣そのものだ。折り紙ひとつに。なんだか、なんか自分が教えている立場だったのに、逆に学ぶことが多かった。言葉がだめなら表情で子供達は返してくる。nice!とかgood!といった私でも分かるズールー語を使ったらものすごくうれしそうな顔をされた。

 80歳の先生と終わった後に話をした。なぜ、無償で先生をしようと思ったのか聞いたのだ。先生は、確かにお金とかないので、ちゃんとした教育制度を整えることはできないけれど、でも、やる気のある生徒、そして紙とペンくらいがあれば何かは教えることができるはず、と言った。自分が地域の大人たちに計算や文字以外の、生きていく術を学んだように自分も大人になった今、基本的な勉強以外にも供達に何か伝えることができたらいいといっていた。まだまだがんばらなくちゃと。とても80歳には見えないくらいバイタリティとやる気に満ちた人だった。そして、何より、前向きに人生を楽しんでいるようにみえた。

 アフリカには、地域や、部族の中で自然とコミュニティデベロップメントが行われているのだ。互いに困ったときは助け合い、それをみて育った子供がまたそれを実行する。できる範囲でどうにかしようとするのだ。やる気にあふれている。自らの手で、自らの地域を変えていこうとする力は十分にあるといってよい。反アパルトヘイト運動だって、そういった村や地域の集まりから始まったものだ。アフリカ特色として、地域の団結力がある。それをうまく開発に生かすことはできないだろうかと思う。

 彼らに必要なのは、費用だったり、管理制度であったり、ちょっとした技術だったりする。ドナーの考えを押し進めるのではなく、その地域に根付いているもの、伝統、習慣、そういったものをうまく取り入れていくことがアフリカ開発において、すごく大事なのではないかと思う。そのためには、やはり、現地の人と一緒に暮らしをともにしないと分からないと思う。アフリカを肌で感じてこそ、はじめて効果的な開発戦略に結びつくのではないかと思う。Suitable and Sustainable developmentを成し遂げるには、助けてあげるといった、上から下を見る視線では無理である。仮に、私がここでこの学校のためになんらかの支援をするとしても80歳のおばあちゃんを私が助けるといった構図はまったく想像できない。また、新しいものを導入するだけが開発ではないと思う。同じ目線で、自分が同じ状況なら、一体何が必要なのか、何をすることが適切なのかといったことを考えて、人々ができる方法を考える必要がある。そう考えると、私の中でのアフリカ開発の定義は「現地の人々と一緒によりよい社会を作っていく作業」だと思う。

2004年9月12日 (日)

歴史に見る『市民社会』概念の変遷(粒良 麻知子)

「地球に乾杯!NGO」をご覧になった読者の方々が用いた検索エンジンでのキーワードを元に、以前掲載したコラムを厳選してお送りいたします。
第4回:キーワード=「市民社会概念の変遷

 流行語の1つであるが、パッと説明しにくい『市民社会』。市民社会の今日的で重要な問いは杉原さんがコラムに何度か書かれているので、私は市民社会概念の歴史を簡単にご紹介したい。関連文献はたくさんあるが、ロンドン大学の市民社会センターのブリーフィング・ペーパーは、インターネットで手に入り、5ページと短いので便利である。下記の説明はこのペーパーを参考にしている。

 『市民社会』の議論は歴史上、大きく3つの系統に分けることができるだろう。(1)ヨーロッパで議論されてきた『市民社会』、(2)ラテンアメリカ、東欧の民主化達成の過程で出現した『市民社会』、(3)先進国及び多国籍ドナー機関が、開発援助の文脈で用いる『市民社会』である。(2)(3)はそれぞれ前の議論の一部を引き継いではいるが、論者の動機とアプローチにより、異なる性質を帯びている。

(1)西欧の『市民社会』論
 ヨーロッパで議論されてきた市民社会は、ローマ人・ギリシャ人の「政治社会」という概念に端を発し、18世紀に議論は盛り上がり、ファーガソン、ホッブスを経て、カントとヘーゲルが、国家・法律とは切り離されたところで生じる人々の活動の場と定義。カール・マルクスは市民社会をブルジョワジー社会と同義語とみなして否定的に扱い、その後、グラムシが経済活動域から切り離す市民社会論を展開。興味深いのは、現在多くの人が考える「国家と市場の間」という市民社会の性質、別の言い方をすると、市民社会組織の「非政府(non-governmental)」「非営利(non-profit)」という性質は、ヘーゲルとグラムシに起源をもつということである。

(2)ラテンアメリカ・東欧における『市民社会』
 その後、市民社会という言葉はヨーロッパでは下火となるが、1970~80年代、ラテンアメリカと東欧諸国において、民主化達成のために権威主義に対抗する市民の活動領域が、『市民社会』と呼ばれるようになる。この後、市民社会という言葉は世界中に広がり、西欧・米国でも民主主義を再活性化するものとして注目されるようになる。市民が、国家や市場とは別の第3の道として、環境・平和・人権グループの活動に参加し始め、これが市民社会と呼ばれるようになる。

(3)開発援助における『市民社会』
 民主化の再活性化として市民社会に注目し始めた先進国は、開発援助において、「市民社会は開発にとって良いものだ」というドグマを採用する。こうして『市民社会』は開発戦略の一部に取り入れられ、時には援助資金を調達するための言葉として、実務的に用いられるようになる。

 上記の系統とは別に、『ソーシャル・キャピタル(社会における人々の信頼関係)』や、国家の枠を越えた『グローバル市民社会』といった概念も現われる。ロンドン大学のブリーフィング・ペーパーには、市民社会は「良いもの」なのか?という問いが投げかけられているが、市民社会をどうやって量るか、民主主義との関係は?…など、この概念に関する議論は続いている。

 現代のNGO活動にヘーゲルもグラムシも出てこないが、市民社会概念の歴史的変遷を知ることにより、現代のNGO活動を人間の歴史の一部として位置付け、より深みのある理解ができるのではないか。また、NGOの実務家がアカデミックな研究者と積極的対話をすすめることが望ましいならば、市民社会の歴史やジャーゴン(専門用語)を知っておいて損はない。

 追記になるが、私はジンバブエに視点を戻し、例えばジンバブエNGOを現政権に対抗し民主化を達成するための革命的アクターと捉えるのと、ソーシャル・キャピタルを形成する非政治的なアクターと捉えるのとでは、かなり見方が異なってくるという発見をした。

 次回は、アフリカにおける市民社会論を概観し、これらの理論とジンバブエのアドボカシーNGOの正当性に関する問いの接点について検討したい。

The Centre for Civil Society (CCS), London School of Economics and
Political Science, Department of Social Policy
http://www.lse.ac.uk/collections/CCS/
Glasius, Marlies, “Civil Society Briefing No.1: A very brief history,” Centre for Civil Society, 2001.
http://www.lse.ac.uk/collections/CCS/pdf/Glasius_briefing1.pdf
(バックナンバー

2004年9月 5日 (日)

Seeing is Believing(3)―アフリカ開発を考えたとき(前)(工藤真友美)

 先日アフリカはなぜ開発が遅れているかという論文を書くために、「開発学を学ぶ人のために*」 という本を読んでいて、開発を勉強、または仕事とする人は開発とは何かという自分なりの答えを持っておく必要があると言葉が目に入った。開発に関して勉強していたのに、こういう根本的なことをあまりじっくり考えたことがなかった。

 私の場合、アフリカに思い入れが深いので、アフリカを開発するとはどういうことかを考えてみた。今までは、先進国が、アフリカを助けてあげるという考え方しかできなかったのだが、ふと、衝撃的な出会いを思い出した。その人に会ってからというもの、助けてあげるのではなく、「一緒に開発していく」という考えが私の中で定着していた。

 私のことを受け入れていたピートレティーフロータリークラブの活動の一環で、(ロータリーの留学プログラムの場合、必ず、送り出すロータリークラブと、受け入れるロータリークラブが提携して留学が成り立つ。)タウンシップ(主に黒人が住んでいる地区)の障害のある子供達のための学校に毎月寄付や物資の支援を行っているということで、私もついていった。タウンシップは白人の中流階級とは対照的で、小屋のようなところで大家族が住んでいる。もちろんタウンシップ内でも貧富の差はある。南アフリカの中では貧しいとよばれる場所である。物保護区、自然保護区、などと違って観光客はなかなかお目にかかれない南アフリカの一面である。

 学校というのだから、丘の上に見えた大きな建物に行くのかと思えば行った先は、7,8畳ほどの広さの小屋のようなところだった。その中で15人くらいの子供達が待っていた。

 正直「ここが学校?」という印象を受けた。もちろん、ここは途上国で日本と比べてはいけないのは分かってる。しかし、これはさすがにひどい。そう率直に思った。改善はされてはきているが、まだまだタウンシップでの教育問題は山積みだ。障害者専用の教育まで手が回っていないのだそうだ。そこでであった、80歳のおばあちゃん先生がこの障害者用の学校を公共の場であるこの小屋を使って始めたのだそうだ。

 この80歳のおばあちゃんこそが、アフリカの人はかわいそうだから助けてあげようという考えを一掃したのだった。そもそも、かわいそうとか、助けてあげようといっている時点で、アフリカを下に見ていることになる。事実、経済や政治制度の数値的や、制度的な観点からいえば、確かにそうだ。貧しいのは事実。ただ、人々の心や、考え方は決して劣っていることはないと思う。少なくとも、この80歳のおばあちゃん先生は日本の80歳のおばあちゃんより、進んでいるのではないかと思う。

(*菊地 京子 (編)(2001年)「開発学を学ぶ人のために」世界思想社

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