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2004年12月

2004年12月13日 (月)

コンピューターが先住民の子供たちに広げたマヤ文化の世界(1)(上岡直子)

「地球に乾杯!NGO」をご覧になった読者の方々が用いた検索エンジンでのキーワードを元に、以前掲載したコラムを厳選してお送りいたします。
第9回:キーワード=「ラテンアメリカの教育」

6月のグァテマラへの出張は、主に首都のグァテマラ市で、USAIDとの協議と事業計画書作りに、明け暮れてしまった。でも私の担当する二言語教育のプロジェクトの実施地であるキチェ県まで、首都から車で3時間以上かかる道程にもかかわらず、とんぼ返りをしてきた。それには特別な理由があった。というのは、プロジェクトの活動の一環としてつい最近始まったばかりである、コンピューターによるマヤの言語と文化教授の実態をなんとしても見たかったからだ。近代的なテクノロジーと一見無縁である農村部の小学校に、コンピューター・センターが設置された。先生、生徒たち、そして父兄の反応はいかなるものだろうか。プロジェクトが開発したITプログラムは、どんなもので、どのようにクラスに使われているのだろう。貧しい農村部において、機械のメンテナンスや経費の面で、問題はないのだろうか。せっかくグァテマラまで来ていながら、それを自分の目で確かめないわけにはいかなかったのである。

 キチェ県の農村部の小学校にコンピューターを導入-これはもとから活動計画に入っていたわけではなかった。しかし、同じくUSAIDプロジェクトの"Learn Link"が、マヤの民間伝承の話や歌を集めたコンピューター・プログラムを数多く作成し、同じキチェ県に10数箇所におよぶコンピューター・センターを設置ていていた。それもあって、私達のプロジェクトも、そのプログラムやコンピューター・センターを活用させてもらっていた。例えば、教材開発の活動の一環として、教員がコンピューター・センターで、教材を作りができるようにはからったりもした。簡単なITスキルのトレーニングを与えることにより、教員がコンピューターに高い関心を示し、自身で教材開発を進めるのに夢中になる。こんな実例を目の当たりにしたこともあり、私たちの二言語教育プロジェクトも、対象の小学校幾つかにコンピューターを設置することを思い立ったわけである。小学校自体にコンピューター・センターを設置すれば、先生は自分の学校で教材開発ができる。それに加え、授業にコンピューターを利用することも可能になる。

 Learn Linkが、セコハンコンピューターを、米国団体"World Computer Exchange (WCE)"(www.WorldComputerExchange.org)より入手する計画を立てていたのに便乗させてもらい、私達のプロジェクトにもコンピューターを輸送してもらう手配が進んだ。WCEは、米国の団体や個人から、使用されていないコンピューターを集め、途上国に送る活動をしている、ボランティア団体である。コンピューターにつき40ドル程を徴収しているが、団体の維持費をカバーする目的であって、あくまで機械自体は寄付扱いである。

 私がグァテマラを訪ねた今年の6月、セコハンのコンピューターがキチェ県のプロジェクト実施地に届き、選ばれた8校の小学校がそれぞれ10台ほどのコンピューターを受け取り、コンピューター・センターを開いたばかりだった。プロジェクトは、ITの専門職員を使って、それらの小学校に対し、センターの設置の助け、教員向けに機械使用とメンテナンスに関するトレーニングを、すでに行っていた。しかし、私が訪れたサクァプ-ラの小学校では、生徒達向けには、その日初めて、コンピューター・センターがお披露目された。小学校1年から6年生の生徒、そしてまだ5、6歳であろう幼児部の子供達までが、先生に引き連れられて、一同にコンピューター・センターに次々集まってくる。講堂のような広めの部屋に、機械が整然と並んでいる様子を始めて目にし、皆一同にびっくりしたり、興奮して声をあげたりしている。そして、いよいよ教師が、コンピューターに電源を入れる…。(次回続き)

(本コラムは2003年8月25日に掲載しました。続きはバックナンバーでご覧ください。)

2004年12月 6日 (月)

私にとって身近なエチオピア、エチオピア人にとって身近なDC(利根川佳子)

エチオピアをインターン先に選んだ理由は、大学学部時代にアフリカ政治ゼミに入っていたので、地域としてアフリカに行きたいという気持ちがまず一番にあった。そして、アメリカに来てから、エチオピアが身近な存在になっていたからだ。エチオピアを身近に感じていた理由は大きく二つある。一つは、昨年インターンをしていたWorld Learningはエチオピアで教育プロジェクトを行っていた。私自身は、ラテンアメリカでの教育プロジェクトのお手伝いをしていたが、アフリカ担当の方からエチオピアのお話を聞くことが多かったし、個人的にエチオピアでの教育プロジェクトに興味を持っていた(http://www.worldlearning.org/wlid/news/ethiopia_education_story.html)。

2つ目は、現在在学中であるジョージワシントン大学も、USAIDのファンドでエチオピアで教師教育のプログラムを行っていたことである(http://www2.gwu.edu/~ethiopia/)。この関連からか、授業で事例としてエチオピアがよく使われており、いつのまにかアフリカの中で一番身近な存在がエチオピアになっていたのである。そして、運が良ければ、ユニセフのプロジェクトと併せて、World Learningとジョージワシントン大学が行う二つのプロジェクトもエチオピアにてぜひ見たいという思惑もあった。

さて、実際にエチオピアに行って知ったのだが、驚いたことに、エチオピア人にとって一番身近なアメリカの都市はワシントンDCであった。エチオピア人に「どこからきたの?」といわれ,もちろん「日本です」と答える。そして、「今はアメリカのワシントンDCで勉強しているんだけどね」と続けると、首都アディスアベバに住むエチオピア人の多くは、「母親がDCにいる」、「親戚がDCにいる」…と返ってくるのである。さらには、発音の近いダジャレとして、「ああ、ワシントンDessie(デッセイ)ね(笑)」と返される。(デッセイは、アディスアベバから約400キロ離れた小都市。)

ワシントンDCは、アメリカの中で一番エチオピア人が多い都市なのだ。特に、アダムス・モーガン、18ストリートの辺りは、エチオピア人が集中している。アメリカに行ったことがないアディスのエチオピア人も、「DCの18ストリート」を知っている。調べてみたところ、アメリカにいるエチオピア人約75万人のうち、約30万人がワシントンDCにいるそうだ。実際に、DCを走るタクシーの運転手の多くはエチオピア人だという。

ワシントンDCがエチオピア人にとって一番身近な都市であることも驚いたが、多くのアディスに住むエチオピア人がアメリカに行く事を夢とし、家族が離れ離れになっても渡米することに更に驚いた。ユニセフを初め、国際機関で働いている多くのエチオピア人は、家族の誰かがアメリカにいた。アメリカで働き、エチオピアの家族に送金しているのだ。途上国で田舎に住む父親や若者が、大都市に出稼ぎへ行くという話を聞くが、エチオピア人の中流以上の階級では、アメリカへの出稼ぎが多くなっているようだった。ユニセフの教育セクションの秘書をしている女性も母親はDCにいて、老人を訪問し、家を掃除するといった、訪問介護を仕事としているという。

エチオピア人の中流以上、上流の家族は、日本の中流家庭よりも裕福な生活を送っている場合が多い。お手伝いさんが家にいて,掃除も料理もしてくれる。そういう人たちが、アメリカでの生活とのギャップに耐えられるのだろうかと心配になる。

親戚の誰かがアメリカのグリーンカードが抽選で当たった場合、親戚中でお金を集めて飛行機代を工面するという。金曜日の夜(アメリカへの便がある日)は、空港は見送りの人が多すぎて、見送りのみの人は空港に入れない。私も友達を見送りに空港に行った日がたまたま金曜日で、空港の外で見送りの人たちが大行列を作っていた。アメリカへ行ったとしても、いつエチオピアに戻ってくるかはわからないのだ。

このアメリカ出稼ぎ傾向は、エチオピアの失業率が高いことも影響しているだろう。調べてみると、一番最近の情報で、1997年の失業率が30%となっており、現在は更に高くなっているらしい。また、エチオピアの都市にすむ15~30歳の男性の約半分は職がない状況だそうだ。私が、アディス郊外にある職業訓練高校を訪問した時に、先生が卒業しても職につける生徒は少ないと言っていた。その学校では、自ら起業することを生徒達に勧めていた。

ユニセフの秘書の女性も、システムエンジニアとして働いている女性も、私と同じ年ぐらいだったが、母親がずっとアメリカにいて離れ離れだという。エチオピア人の多くは、家族と暮らすことができなくても、アメリカで働きたいというアメリカンドリームを持っており、アメリカに行くことが高地位を表しているようにも感じた。また、アメリカ行きは、中流階級以上の人たちが豊かな暮らしを保つための一策かもしれない。アメリカにいる家族メンバーによって、その家族の経済的豊かさは守られているのかもしれないが、エチオピアでも家族の在り方が変わりつつある様子をさびしく思った。

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