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2005年4月

2005年4月25日 (月)

津波被災地復興支援の現場から(2)(里見陽子)

スリランカでは、4月13日・14日がシンハラ・タミル正月の祝日だった。日本人にとって重要な1月1日の「元旦」はこの国では休日でもなく、人々は普通に仕事にでかけるのだが、4月のお正月は盛大なホリデーシーズンである。家族や親戚が集まってご馳走をいただいたり、新しい服などの贈り物をしたりする。それから占星で縁起がいいとされる「大安」の日(auspicious day)を待って、仕事本格再開となるのである。

私はこのシンハラ・タミル正月をはさんで2週間ほど現場を離れていたが、戻ってきてみると半月前より格段に暑くなっている。4月・5月は一年で最も暑い時期。日中の気温はあえて知らないほうがいいだろうと思っているのだが、外はいかにも灼熱の日差しという感じで、体の中まで煮え立ちそうだ。いつもなら涼しい木陰や室内も、暑い。これから2ヶ月は熱との闘いになるかもしれない。

お正月休みが明けると、学校では2学期が始まる。先学期のスタートは津波被害のため場所によっては1~2ヶ月くらい遅れたが、2学期は被災地でも他の地域と同じスケジュールで開始することができた。

沿岸部の被災校(全壊・半壊)に通っていた生徒は、被害を受けなかった近隣の学校に「疎開」している。受入れ校の生徒が午前授業(午前8時~午後12時)、被災校の生徒が午後授業(午後1時~午後5時)、という2部制で授業が行われている。通常の授業時間は午前8時から午後2時であるから、受入れ校・被災校ともに授業時間が毎日2時間ずつ短縮されてしまう。

津波で崩壊した学校校舎の再建計画は教育省が中心となって進めており、現在までに大部分の学校について、誰(ドナー、NGO等)が建てるのか決まっている。(教育省ホームページhttp://www.moe.gov.lk/images/donor.htm

しかし問題なのは土地である。政府は海岸から200メートル以内における一切の建物建設を禁止したため、その「バッファーゾーン」に位置する学校は200メートル以上内陸の別の場所に移転しなければならない。ところが東部の沿岸地域、特にカルムナイ周辺は人口密度がかなり高くなっており、政府所有の土地がないため、学校の移転先がないのである。私有地は驚くほど価格がつりあがっているし、ひとつの区画に何人もの所有者がいたりして、学校移転のための土地取得が非常に困難な状況である。

移転先の目処が立っていないし、仮に土地が見つかったとしても校舎建設には時間がかかるので、2部制による授業体制は今後2年くらい続くものと思われた。ところが、疎開していた被災校は、私有地や公共広場などとりあえず仮設教室に使えそうな敷地を自力で見つけて、次々と疎開先を出ていっているのが現状だ。津波で流れてきたのであろう瓦礫やゴミが山と積まれたグラウンドや、建設途中で壁や天井がまだできていない建物など、およそ子供たちが勉強するにはふさわしくないような場所も使われている。

そこまでして被災校が独自の場所を確保したい理由は、午後授業が習慣にないため不都合であること(昼食の時間に合わない、午後は暑さが厳しい、など)と、やはり他校の施設を使って授業をするのはやりにくい、という点があげられる。正直、これは予想外のことだった。

被災地の状況は非常に流動的で日ごとに変化していくため、柔軟な対応が必要である。多数のドナーやNGOが活動している中、無駄や取りこぼしのないよう支援していくことは、大きなチャレンジだ。変わりゆく環境にあって、何が必要とされているのか、その優先的ニーズが的確に取り上げられるよう、サポートしていきたいと思う。

2005年4月18日 (月)

セネガル地方政府にとってのPLA(位田和美)

ローカルNGOによるPLA研修後任地へ戻った私は希望に満ち溢れていた。ときに時期は9月半ば。まだまだ農作業の忙しいときである。それでも、PLAを実践できれば、という想いからまずは配属先である農村開発普及局(地方行政機関)の上司に相談し、アドバイスを仰いだ。すると、この上司こそ自称「PLAの申し子」、PLAをよく学び、実践もしてきたと言うではないか。実際に上司の前の任地で行ったPLA報告書も見せてもらった。これは願ったり叶ったり。・・・と思ったのも束の間。よくよく話を聞いてみると、上司の言うPLAとは、上司自身はもとより、多くの開発関係者を村へ呼び、上司たちの日程に合わせて村人を集め、5日間程泊り込んで実施する非常に大々的なものであり、それ以外はPLAとは呼ばない!というほど決まりきったものであった。しかも、そのコーディネート(資金調達含む)はすべて配属先に所属するボランティアである私の役割であると言う。

上司がPLAを知っていたこと、またPLAの支持者であることを知ることができたことは何よりの収穫であった。しかし、問題は私が思い描いていたPLA像との乖離である。私にとってPLAとは、あくまで村人の利益中心であり、日常の生活において村人の負担にならない範囲の日程で、かつ村人の率直な意見が出るような環境下での情報収集・意見交換を通し、お互いに気づき、学び合うというものである。他方、配属先にとってのPLAとは、まずは「配属先の成果」としてのPLA実施という事実を作り上げることであり、村人への利益還元は二の次である。もしも村人への利益還元を図るとすれば、PLAによるニーズ調査後、援助機関による開発プロジェクト導入によって図るものである、との認識でいる。しかも、その開発プロジェクトの導入交渉もJICAのボランティアである私に期待している面が大きい。

これら配属先の意向を知ったとき、私は非常に困ってしまった。当時、PLA実施のための資金調達源も、その後の開発プロジェクトを導入する見込みもなく、また何よりも、そもそものPLAに対する認識が真っ向から食い違っている状況下で、私自身どのように対応していいのか図りかねたのである。しかし、私のセネガル派遣は配属先からの要請があってこそ。配属先上司の配属先の利益を優先した考えも、組織としては当然のことであるため、理解はできる。そして考えれば考えるほど、私の考えは所詮は外部者として「村人の利益」という理想を追求しすぎており、現実を見据えることができてはいないのではないか。もしかすると、配属先上司の言うように、多少のニーズ調査の純粋性が損なわれようと、結局はどんな分野であれ開発プロジェクトが村に導入され、社会経済インフラが整っていくことこそが村人にとっての利益ではないか、と思い悩むようになった。

そこで、PLA実施に関しては3通りの可能性を検討した。①配属先の言う通り大々的に行う方法。②私が考える村人の都合・既存リソース・利益を最優先した方法。③モデル村を設定し、モデル村では①の方法で実施し、同時にモデル村でのPLA実施時に招待した他村のファシリテーターを養成。養成したファシリテーターが②の方法で実施する方法。しかし、考えていても何も始まらない!配属先との会話を進めつつも、まずは村へ行き、村人の現状を改めて見てみることにした。

2005年4月11日 (月)

国際協力を夢見るまで(松本麻美)

1)はじめに
 私は現在、学士課程に在籍する学生である。開発分野で仕事をしたいという目標に向かって進み、NGOの代表メンバーとして国際協力に関わり始めるなどもしているが、実際にはまだ現在進行形である。そんな私からも同じように夢に向かって進んでいる同志、また現在働いている方、その他様々な人々に伝えたいものがたくさんある、そんな思いをもって私はコラムへの参加を申し出た。
 まだまだ未熟な私ですが、どうぞよろしくお願いいたします。地球に乾杯!

2)国際協力を夢見るまで
 私は平和ボケといわれる時代の日本で生まれ育った。そんな私にとって、テレビや新聞からあふれてくる世界各地のニュースは、アニメやドラマよりも現実感がなく、毎日の関心ごとは目の前の楽しみと少しの刺激を追い求めることばかりだった。しかし中学1年の頃、それまでの私の価値観をがらりと変え、世界問題について興味を持ち始めた。

 きっかけは両親の離婚である。母親側に引き取られることになった私は、住み慣れた家を離れて、シェルターと呼ばれる女性の緊急一時避難場所で1ヶ月を過ごすことになった。シェルターとは様々な背景のもと一時的に自分の身を保護してもらう必要のある女性とその子供たちに安全な宿泊場所を提供し、自立のための支援を行う場所である。

 シェルターでの生活、離婚に対する周囲からの偏見の目、その他さまざまな新しいことに直面する中で、私は自分だけが社会の流れから取り残されたような思いと社会への不信感を募らせるばかりだった。そんなある時、シェルターにいた一人のソーシャルワーカーの方が私に一冊の本を薦めてくれた。ベティ・マムーディ著の「マートブ!」(注)というノンフィクションストーリーだ。その本にはイラン人男性と結婚しイランに渡った作者の、夫からの虐待やイラン社会における人種、女性差別に苦しんだ現実が綴られていた。

 こんなことが現実に起こってよいのか、と疑いたくなるような出来事ばかりのその本を読み終えて、私は一つの大切なことを学んだのだ。それは自分が感じ始めた社会への不信感や憤りは、決して私ひとりだけが感じているものではない。世界には同じように、むしろもっと大変な状況でそんな思いを感じている人がたくさんいるのだ、ということだった。

 それ以来、私はいろいろな世界の問題に目を向けるようになった。すると世界には自分の想像を超えた、たくさんの悲惨な現実が存在していることに気がついた。マンホールで生活する自分より何歳も年下のストリートチルドレン、何の罪もないのに地雷で足を失った人、弟や妹の子守をしながら学校の授業を受けている子供たち、戦争で自分の身内が目の前でなくなっていくのをただ見続ける以外何もできなかった人たち・・・そのような人々の苦しみを、自分の感じた苦しみや憤りと重ね合わせて思いはじめるにつれ、絶対にそんな現実をそのままにしておくことはできない!と強く願うようになった。そして最終的に国際協力という分野で働きたいと夢見るに至ったのである。

私の国際協力に関わりたいという思いをもつようになったのは、このようにとても個人的な体験がきっかけである。自分が感じた憤りを原動力に、世界に貢献していけるようこれから全力で頑張っていきたい。
(筆者プロフィール

(注:ベティ・マムーディ、ウィリアム・ホファー共著 内海 舳訳 『マートブ! 自由を求めて550日』 (「ノーと言える女性たち」シリーズ 1)ジャンニ・コミュニケーションズ、1993年 (内容説明:上巻下巻[bk1より])
原著は「Not Without My Daughtor」1991年に映画化。邦題は「星の流れる果て

2005年4月 4日 (月)

女子教育を阻むもの(1):早婚、女子誘拐(利根川佳子)

(前回のコラム:ユニセフーエチオピアの組織について:部署間でのコラボレーション)

インターンでのアサインメントの一つは、ユニセフのGirls Education Initiative(GEI)の対象となっている学校の現状調査であった。実際に学校、地方役場の教育オフィスを訪問し、現場を見ることができたため、インターンシップの中で一番勉強になり、また一生忘れることができない経験となった。訪問した地域は、エチオピアの南部州(SNNPR:Southern Nations and Nationalities and Peoples Regional states)で、2週間かけて様々な村をまわった。

GEIは、学校の中でも男女の就学率のギャップが一番開いている学校を対象としている。そのため、当然ながら、学校を訪れると女の子は圧倒的に少ない。ダラ(Dara)郡のある学校では、年齢層はバラバラだが,1年生に男子が102人、女子が20人登録しており(この時点で既に男女の差は明らかだが)、4年生になると男子は34人、女子は3人となる。更に私が訪問した際には、4年生の女の子3人のうち、2人は結婚することになり、もう学校へ来ていないとのこと。つまり4年生の女の子は、たった一人しかいなかった。クラスを実際に見学したときには、彼女は一番後ろの席に座っており、1人でさびしそうだった。彼女にはぜひがんばって学校での勉強を続けてもらいたい。

この学校の女の子の状況からも見られるようにエチオピアでの女子教育の障害として、早婚が挙げられる。エチオピアでは、早い場合7,8才で結婚する場合も少なくない。若くして結婚することで、学校へ行くことが阻まれる。運良く夫が、妻が学校へ行くのを許可したとしても、妊娠してしまうとそこでストップ。早婚が女子教育を阻んでいる。

また、早婚を導く女子誘拐(abduction)もエチオピアでの女の子の教育を阻害している。女子誘拐は、結婚相手を探している男性側の家族によって行われる。なぜ誘拐するのか。エチオピアでは、伝統的に男性が結婚する女性の家族にDowry(結納金)を支払うことになっている。このDowryは、処女の女性とそうでない女性で値段が変わるのだ。処女であるとDowryは約400USドル、そうでないと約50USドルまで下がる。そのため、男性側の家族は、気に入った女の子を見つけると、誘拐し、レイプする。ひどいときには、妊娠するまでレイプする。そして、その女の子の家族にその事実を伝え、安くなった結納金を払い、結婚するのだ。伝統的には、処女でない女の子は社会的に受け入れられず、なかなか結婚できない。また、レイプされた女の子はその家の「恥」となる。女子側の家族は、その誘拐した男性側の家族の要求をのまざるを得ない。誘拐された女の子は、精神的にも肉体的にも傷つく。また、レイプによるHIV/AIDSの感染もありえる。エチオピアの法律で、女子誘拐は禁止されているが、実質的効果はほとんどないようだ。ユニセフのあるレポートによるとエチオピアの結婚の70%は女子誘拐によって行われているとある。

では、女子誘拐に対して、どのような行動がとれるのだろうか。次回のコラムで、更に女子誘拐について言及する。

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