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2005年5月

2005年5月30日 (月)

津波被災地復興支援の現場から(3)(里見陽子)

(前回のコラム「津波被災地復興支援の現場から(2)」)

スリランカ東部のアンパラといえば、これまで国内外からあまり注目されていなかった地域であるが、現在この地域に出入りしている援助関係者はものすごい数に及ぶ。国連をはじめとする国際機関、二国間援助機関、国際NGO、ローカルNGO、そして個人で活動する人々まで。あちこちに事務所が設置され、団体名を掲げて走る車も多い。避難民キャンプの入り口や住宅・学校の建設予定地などには、「Funded by ~」とサインボードが掲げられる。

アンパラ県知事が主催する国際NGO・ドナー調整会議は、県庁にて隔週で開かれている。3月初めの時点で、この会議への出席者が一時と比べずいぶん減ってきている、と県知事はいくぶん淋しそうに話していたが、それでも大きな円卓を囲んで二重の輪ができるくらいの出席者を得て、今もこの会議は続けられている。また県(district)レベル以外にも、地区(division)ごとに地区事務局(divisional secretariat)が主催する形で時折会合が開かれ、情報や意見交換を行う。

このように多数の援助関係者が集中する災害被災地の現場において、ドナー調整は非常に重要である。その際、調整の「主体」はその国(例えばスリランカ)の政府機関または地元コミュニティであるのが理想だ。外部のあらゆる援助団体・機関がそれぞれに特定の対象地域で特定のミッションを達成しようとして単独に活動していたのでは、支援活動全体に非効率や無駄が生じるだけでなく、被災地域住民たちが本来持っている「自らの力で生きる力」を奪ってしまうことになる。

私が現場で実際に見た中にも、例えば支援物資として配給された運動靴や通学かばんを一人の子どもが3つも4つも持っていたり、一世帯で使い切れないくらいの小麦粉が家庭に配られていたり、という実態があった。その一方ですぐ隣のコミュニティでは、瓦礫の中を裸足で歩き、破れたビニール袋にノートや鉛筆を入れて通学してくる子どもがいるのだ。誰がどこでどんな活動をしているか援助関係者間で互いに情報共有がされていないと、支援が最も必要とされているところに届かないという非効率や無駄、そして非公平性を生む。

また特に危険なのは、住民たちの間に援助依存の体質が現出することである。ある時フィールドの仕事でローカルコンサルタントと一緒に歩いて学校の敷地に入ろうとすると、隣接する避難民キャンプから出てきた男性に現地語で声をかけられた。
「今日は何をくれるんだ?」
彼は毎日こうして代わる代わるやってくる救援物資を待っているのだろうか。経験豊富な同僚のスリランカ人コンサルタントも、これにはショックを受けていたようだ。ひとたび援助依存に陥ると、自助努力の意欲が失われ、何でも外部からの物資供給に頼るようになってしまう。働くことに意味を見出せない。これでは我々が目指す「持続的・自立的発展」と全く反対の状況である。

津波で家族や財産を何もかも失ってしまい、どんなに貧しく困難な状況でも、住民自身が持っている力やリソース、ポテンシャルが必ず何かあるはず。そこで生活してきた中で蓄積された知恵やコミュニティのつながり、いわゆる「ソーシャル・キャピタル」と呼ばれるものであろうか。緊急援助に続く復興プロセスは、ここからスタートするべきだと思う。つまり、あれが無い、これが無い、ではなく、何が「ある」か。

本当に現場のニーズにあったものは何か、現場の主体とドナーコミュニティとが一緒になって情報共有し、意見交換できるシステムが重要だと考える。援助は競争ではない。

2005年5月22日 (日)

プロジェクトの持続性とは…(2)-グアテマラの二言語教育プロジェクトの終了を控えて-(上岡直子)

(前回のコラム「プロジェクトの持続性とは…(1)」

前回のコラムにおいて、グアテマラの二言語教育プロジェクトの、コミュニティ・レベルを超えた持続性に関する懸念に言及した。プロジェクトがコミュニティより上のレベルにおいても持続されるには、国の政府の政策決定権のある人々が、まず第一にプロジェクトの目的を分かち合っており、活動の内容と成果に充分な関心を持ち、それが有益であると認めた上で、公共事業の一部として行く事が必要である。

当グアテマラの先住民向けの二言語教育のプロジェクトの場合は、1996年の和平協定の締結を受けて、USAIDが先住民に対し、先住民の言語と文化を取り入れた教育プロジェクトを実現させる目的で実施に至ったものである。USAIDは1980年代より先住民対象の二言語教育に対し支援を行なっているが、従来はスペイン語の習得を効果的に行なうため、生徒の母語であるマヤ語を使いスペイン語を教授するのが、主な目的であった。しかし、和平協定後の二言語教育プロジェクトは、協定に明記された先住民の文化的権利と、学校での先住民言語の使用、および文化・伝統の保存を支持する目的から、すべての科目におけるマヤ言語の使用、マヤの生活習慣、世界観、文化を織り込んだ授業を目指したという点で、従来の二言語教育と異なる。実際、プロジェクト名からしても二言語異文化間教育(Educación Bilingüe Intercultural)と、文化面も強調されている。USAIDだけでなく、ドイツを始めとする他の国際ドナーも、和平協定後、先住民向けに同様の教育活動への支援を一気に開始した。

しかし、グアテマラの政府にとって、先住民は国の人口の割合からしては過半数であるにもかかわらず、先住民に関する関心は薄く、政府の政策や事業で、先住民が恩恵を受けるものは限られている。これは、政府高官は、大多数が非先住民であり、同胞の非先住民の利益を優先して政府の事業を進めるからである。もちろん植民地時代から続く、先住民に対する偏見、差別もいまだに根強いこともあるだろう。政府は、先住民の起用を対外的に示す必要もあって、少数ながら先住民出身の高官を起用しているが、それらの人々は、政策決定権の周辺部におかれている場合が少なくない。また、政府事業は、農村部よりも都市部対象に重点が置かれがちで、先住民の殆どは農村部に集中しているから不利である。先住民を対象とする二言語教育に関しても、政府の教育政策に明確に含まれておらず、事業も殆ど国際ドナーに頼って実施している。(教育省に異文化間二言語教育局があるが、職員自身の予算も常に充分でなく、事業費にいたっては、殆どないのが現状である)。

 World Learningの当二言語教育(正確に言えば二言語異文化間教育)は、プロジェクトの効果と持続性を図るために、コミュニティ・レベルでの活動と並行し、中央と県レベルの教育省と連携してきた。それは、教育省の高官との討議に限らず、教育省の職員を教員と一緒(または別に)トレーニングし、二言語教育手法を伝授したり、先住民向けの教育に関する会議やワークショップを開催して、二言語教育の重要性を啓蒙したりと、数知れない。昨年(2004年)の初めに新政府が発足し、教育省の高官も一新された後は、教育大臣を当プロジェクト実施地のキチェ県に招待し、実際に教師や父兄が、プロジェクトから伝授された手法で二言語教育を行ない、生徒が和気藹々と学んでいる様子も参観してもらった。草の根レベルで成果が現れた手法と経験をベースに、政府の教育政策や事業に影響を与えるという、ボトムアップの政策戦略である。その結果もあって、教育省が、プロジェクトが終わる前に、先住民の割合が高い十三県を対象に、プロジェクトの開発した、異文化間二言語教育手法を伝えるトレーニング・ワークショップを開催して欲しいと依頼があり、そのワークショップは今年初めに実施された。

しかし政府がこれから、キチェ県で私達のプロジェクトの活動を県の職員によって引き継いでいったり、また、他県において、プロジェクトがワークショップを通して伝授した手法や経験を実際活用していくという予定は、特に出していない。このプロジェクトは、グアテマラ政府とUSAIDの協力協定により開始されたもので、書類上は、政府(教育省)がカウンターパートとなっている。しかしそれは形式上のことだけで、政府は相変わらず先住民に対する関心が薄く、自分達の予算を費やしてまで二言語教育を推し進める意図はないことを、改めて認識させられた次第である。世界銀行やJICAの技術移転のプロジェクトであれば、政府が真のカウンターパートであり、その為、政府の意向や官僚システムに否が応でも振り回され、プロジェクトが従来意図した活動を行いにくかったり、効率的に活動を進めるのが困難だったりする。以前世銀にいた私は、USAIDのプロジェクトの実施し易さがうれしかったのだが、今になって、それは政府の範疇外で活動が行なわれていたためと気づき、唖然としてしまったのである。当プロジェクトは、草の根レベルで教師や住民に、二言語教育に対する意識変革を引き起こすことには、ある程度成功したと思う。また、プロジェクトが起用した先住民のコーディネーター達も、プロジェクト終了にあたって、自分達の同胞の先住民に対する支援を引き続き行なう目的で、NGOを結成したりと、プロジェクトの活動がローカルのキャパビルの一端を担ったと自負している。しかし、USAIDのこのようなプロジェクト実施のモダリティが、コミュニティを超えたレベルでの持続性を持たせられるのか、考えさせらてしまうところである。

2005年5月16日 (月)

世界の縮図と自分の現実(松本麻美)

(前回のコラム「国際協力を夢見るまで」)

国際協力を夢見るようになってから、世界をもっと知りたい、そして自分が世界の中で出来ることを探したいという思いが大きくなった。そして手当たり次第、国際問題についての本を図書館から借りたり、深夜のCNNを録画して世界を少しでも違う視点から見ようと試みたりした。また実際に国際協力に関わりながら世界を知っていきたいという思いから、若者が中心となり飢餓撲滅のために活動しているNGO団体Youth Ending Hunger にボランティアとして参加した。しかしそのように自分なりに世界を知ろうと努めていったものの、世界は私の前にいつまでたっても果てしなく広がっていたのだ。それはまるで新しい世界の一つの側面を知るたびに、また新たに知らないことが増えて行くかのようで、私は世界への自分の理想的な関わり方を具体的に見出せずにいた。

そんな状況に焦りといらだちを感じつつあったある日、たまたま読んでいた「国際協力を仕事として」 という本の中で、世界各国から学生が集まる国際学校、United World College(UWC) を知った。UWCとは世界70カ国からメリットベースで選ばれる高校生が、共に全寮制の高校で2年間学び、国際理解や世界平和について考える学校である。世界の縮図、正確には理想的な世界の縮図のような環境であるUWCは、まさに自分の求めているもの全てがあるようだった。それから数年間UWCへの思いを暖め続け、私は2001年日本からの奨学生の一人として英国にあるUWCに行く機会を頂いた。

「大きな世界を自分の目でしっかりと確認、理解したい!そして、自分がどのように世界に貢献できるかを探したい!」そんな風に意気込み、私は『世界』に飛び込んだ。しかし、現実は私の期待にそう簡単に応えるものではなく、世界を理解することの新たな難しさにまず直面したのである。国際理解、国際平和構築という理想主義に賛同して集まったはずの学生達が集まった学校であるにも関わらず、食堂ではそれとなくアジア、アフリカ、東ヨーロッパ、ラテンアメリカ、中東地域などと、それぞれの民族、文化ごとにテーブルを囲んでいた。多文化が入り混じる環境では、他者・多文化を理解するよりもまず、私を含め多くの人が、意識・無意識の内に自分の文化やアイデンティティーを守るのに必死になってしまいがちだったのだ。また到着当初、英語でのコミュニケーションが十分に出来なかった私は、どんなに頑張っても世界どころか毎日の小さなことすら理解できないというジレンマにも悩まされた。

結果そのように世界を満足に理解できずにいた私は、自分の世界に貢献できる方法を発見することも出来ないでいた。唯一発見できたことといえば、世界を理解しようとする時点から、自分がすでに無力で小さな存在だということだけだった。国際協力に関わりたいという自分の夢と、目の前の現実とのギャップに直面する中で、国際協力に関わりたいなど願い続ける権利はあるのか自問自答する毎日がしばらく続いた。しかししばらくして生活や英語にも慣れるてきた後、そのような問いに対して自分なりの答えを見出した。

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2005年5月 2日 (月)

ニーズ調査の先走り(位田和美)

 百聞は一見に如かず。配属先(地方行政組織)とのPLAに対する見解の相違が判明した後、「基本は村の現実」とのスタンスから村へ足を運び、村人の生活をこれまで以上に観察しようと努めた。さらに、私自身が目星をつけている村へ行く傍ら、他の援助団体の活動も勉強させてもらおうと、セネガル政府が実施している社会開発プロジェクトの評価ワークショップにも同行させてもらった。しかし、このような政府プロジェクトが開く集会でさえも参加者はまばら。参加している村人も疲れ切っていて、発言者も少ない。やはり農繁期。村人の優先事項は当然のことながら畑仕事である。無理もない。

 他方、配属先の上司も地方巡回や会議で忙しいらしく、事務所へ行っても不在であることが多い。これでは、PLAを実施しようにも、村人・配属先双方の日程が合致することはなく、話にならない。そして、私自身は細々と時間が空いていそうな人を見つけてはニーズ調査を始め、情報収集をしてはみたが、どうも村人側に積極的な姿勢が見られず、私自身の自己満足に陥っている気がしてならない。やはり時期が悪いのか、はたまたやり方が悪いのか。

 そこで、思い切って活動対象とやり方を変えてみた。ときに時期は10月始め。まもなくラマダン(断食月)に入るものの、学校のバカンスも終わり、新学期が始まる頃。活動対象は農作業で忙しい村人ではなく、小さいけれども都市に住む学校関係者に、「○○のような活動をしてみませんか」という提案型で進めていった。
具体的には、任地全体で“トレンド”のようになっているエイズ対策を、地域の最高教育機関である中学校を舞台に展開しようと試みた。計画としては、12月1日の「世界エイズデー」を目標に、中学生によるエイズ紙芝居の上映と、紙芝居にまつわるエイズ講座を開催しようとした。そこで校長先生から中学校教諭に話をしてもらい、生徒から参加希望者を募ってもらった。

 私の任地はセネガルの首都ダカールとマリの首都バマコを結ぶ大きな国道沿いであり、性感染症の患者も多い。自然、数年前からエイズ予防への関心が高まっており、何かの折につけてはエイズ予防の啓発活動が行われている。しかしながら、それでいて一過性のイベント的活動から脱しきれず、人々の間でのエイズに関する知識が充分備わっているとは言えない。このような状況下において、中学校でもエイズ予防活動に関心のある生徒は予想以上に多かった。企画内容としては成功である。問題は時期と進め方。

 私が企画したエイズ紙芝居とは、日本のNGOジョイセフから寄贈していただいたものであり、脚本は英語で書かれている。上映にあたっては、少なくともセネガルの公用語であるフランス語翻訳作業が必要になってくる。だからこそ私は地域の最高教育機関である中学校に目をつけ、中学校の英語教諭の協力を仰ぎながら、中学生を中心に進めていこうとした。しかし、後になってわかったのであるが、この翻訳作業は中学生にとってあまりに背伸びしすぎたものであった。さらには、企画段階では賛成し、協力すると言ってくれていた中学校教諭も、実践段階になると勤務時間外での活動に不満を持ち始め、ついにはラマダンに突入し、来なくなってしまった。こうして中学校教諭の協力がまったく得られないまま、自分の能力以上の作業を抱えてしまった中学生は路頭に迷い、次々とギブアップしていった。そして、12月1日を待たずして、ついに計画は頓挫してしまった。

 今思うと、エイズ予防に関心のある生徒自体は多かったのであるから、紙芝居上映を前提にするのではなく、「エイズ予防活動として」生徒自身に何かしたいのかを問いかけるべきであった。また、中学校教諭とのコミュニケーションも充分であったとは言えず、日程・進め方・内容等もっと一緒に検討すべきであった。

 つまり、今回は「私のやりたいこと」を前面に押し出してしまい、生徒や中学校教諭からのニーズに耳を傾ける努力が欠けていた。ニーズの把握・仮説検証までは良かったのだが、その後企画に対象者がついて来ているか、それを知るためのコミュニケーションが図れなかったために、「ニーズ調査の先走り」となってしまったのである。

 こうして私の模索はとどまることを知らず、その後の活動への試行錯誤は続くのである。

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