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2005年6月

2005年6月19日 (日)

ウェブサイトコラムを始めて3年(杉原ひろみ)

今から三年前、世界に散らばる仲間に声をかけ、NGOをはじめ、文化や言語、地域固有の問題について、自らの体験や研究に基づくコラムを執筆し、ウェブサイトを通じて発信していくことを始めた。現在も毎週ないし隔週でコラムを更新し続けているが、スタート当初、ここまで長く続くとは思わなかった。スタート当初の執筆仲間が諸々の理由で新しいコラムが書けない中、上岡直子氏だけが現在もなお、継続してコラムを発表していることに、「地球に乾杯!NGO」主宰者として励まされる思いがする。

この一年を振り返ると大きな変化は4点ある。第一に、コラム内で取り上げられる地域が拡大したことだ。スリランカ(里見陽子氏)、セネガル(位田和美氏)、エチオピア(利根川佳子氏)、グアテマラ(上岡直子氏)・・・どの執筆者もフィールドで実際に生活し、仕事・調査をし、自分の目で見て考えたことを元にコラムを執筆している。実際にフィールドで活動する者が書いたコラムは机上の空論で終わりがちな開発の議論と違い、読者の心に響く。

第二に、「地球に乾杯!NGO」の読者であった松本麻美氏が自らアプローチし、執筆者に加わってくれたことである。コラムを執筆し、ウェブサイト上で発表すると、すぐに読者の反応を知りたいものだが、実際はなかなか読者の顔が見えず、一方通行で終わってしまう。そこに松本氏のように熱意を持って当サイトにアプローチし、執筆者に加わってくれたことで、両通行になった。

第三に、執筆者の一人小林由季氏が書いたコラムが出版社の目にとまり、それがきっかけで小林氏の「援助と自立のはざまで -アフリカ最貧国、マラウイからの報告」という報告文が「アリエス」(2005年3月発行、講談社)に掲載されたことである。実は以前、「地球に乾杯!NGO」主宰者として、コラムをウェブサイトに掲載するだけでなく、本にまとめ、出版できないものかと営業活動をしたこともあったがうまくいかなかった。それだけに、各執筆者が活動に広がりを持つきっかけを当サイトが担えたことは、嬉しい限りである。

第四に、昨年3月に当サイトをブログでも同時掲載し始めたが、そのお陰で、一方通行な情報発信から、少しではあるが読者の感想や意見を聞くことができ、主宰者として今後の運営を考えることができるようになった。

今後の「地球に乾杯!NGO」の抱負であるが、これまでの方向を維持していければと思っている。私事ではあるが、今年はまた執筆者として加わっていきたい。書きたい内容は二つある。一つは「米国政府とNGOの関係」を、対北朝鮮人道援助を事例に掘り下げてコラムを書いていきたい。大学時代に専攻した朝鮮地域研究と、これまでやってきた開発援助を融合させ、一つの論文を仕上げることは私の長年の夢で、それを実現するための手段として、コラムを定期的に執筆していきたい。二つは、異文化間コミュニケーションについてである。現在、ワシントンDCに在住し、2歳の娘の子育てを行っているが、公園で知り合ったママさんの誘いで国際女性グループのメンバーになった。100名以上の会員からなる、子育てを中心としたボランティア団体である。会員の出身国もヨーロッパ、アジア、ラテン=アメリカ、中東などさまざま。私は新会員コーディネーターとしてボランティア活動を始めたが、そこで起こるさまざまな出来事は、開発途上国で参加型の社会開発を行うことと相通じることが多い。コラムを書くことで、異文化間コミュニケーションについてさまざまな角度から考えていきたい。

2005年6月13日 (月)

PLA実施(位田和美)

(前回のコラム「ニーズ調査の先走り」)

2005年2月2日。活動村で初めてきちんとした会議を開き、PLAを実施した。活動村へ通い始めて3ヶ月ほど経ったときのことだ。会議開催前は、果たして村人が来てくれるのか、私のつたない現地語で進行できるのか等々、不安だらけであった。

会議当日、約束の時間に村人のよく集まる木の下へ行ってみると、村長以下、何人かが既に待ってくれていた。そこで、もう少し人が集まるのを待つ間、村長たちに村のプロフィールについて質問することにした。村の人口から始まり、基礎インフラ、村内外の組織の存在等々。話を聞いているうちに、過去に村で行われていた女性グループ活動の問題点・課題も垣間見えてきた。

次に村の地図作り。これは後の地図活用を省みると成功したとは言い難いが、地面にしいた大きな紙の上に石や小枝を置いたりして、自分たちの村に何があるのかを皆で声に出してあれやこれや言い合うこと自体が楽しかったようである。後からやってきた村人たちも、「何の騒ぎだ?」と興味深々で地図作成に参加してくれた。

地図完成後、いよいよ村の課題を話し合ってもらおうと、PLAツールのひとつである「問題の木」を実施した。これは、村人が直面している問題をまず挙げてもらい、次にその原因と結果を分析してもらい、最後にアクションプランを立てる、というものである。結局、この村では(1)女性の重労働と(2)健康、(3)ソーシャルセーフティネットの欠如と3つの問題が挙がった。以下、村人たちが考えた因果関係を紹介する。

(1) 女性の重労働

具体的に、女性たちはどんな仕事に従事しているのか。それは村の生活を見れば一目瞭然であり、予想通り、重労働の代表選手、水の運搬や薪での調理、ミル搗きから成る炊事と畑仕事、子守りが女性たちの主な仕事であることが挙がった。

しかし、さらに面白いことに、女性の重労働の要因の根底に一夫多妻制が挙げられ、議論が白熱したことである。女性たち曰く、一夫多妻制によって一家にたくさん女性がおり、子供の数も多い。したがって、家族の数に比例し、炊事や子守りが大変である。また、男女間で「家族」の単位が異なるため(男性たちはすべての妻子を含む大家族を一単位とする一方、女性たちは自分と自分たちの子供を中心とする家族を一単位と認識しているようである)、女性たちは自分の「家族」を守るために、野菜の種や子供の洋服、しいては日常用品を買うにも畑で一生懸命働かざるを得ず、特に第二夫人以降はその傾向が強いと言う。さらに、女性の権利が尊重されていないために、夫の意向に逆らえず、家族計画を立てることもなく、結果として子だくさんとなり、いつまで経っても仕事が減らない、とのことであった。そして、その重労働の結果として、休む暇もなく、日常的に疲労感があり、ときに健康を害することがある、と分析していた。

この議論をしているとき、女性たちはとても生き生きしていた。普段黙々と働いている彼女たちが、「一夫多妻制は妻の労働分担を図り、ひとりあたりの労働を削減するための措制度である」と言い返す男性陣をもろともせず、村の男性たちの前で上記のように堂々と意見を言い、自分たちの思いのたけを存分に述べていた。

(2) 健康

さて次に(1)の女性の重労働の結果としても挙がった「健康」の問題であるが、この村には簡易保健小屋があり、地域保健普及員も精力的に保健啓発活動や乳幼児体重測定を実施している。実際、村全体の保健分野に対する取り組みが評価され、JICAの母子保健プロジェクトのパイロット村としても指定された村である。そのような村の健康の問題とは何か、ここでも女性たちが積極的に発言してくれた。

曰く、健康問題の原因としては疾病予防の知識はあってもその実践が欠如しており、また、栄養不足、重労働、資金不足と合わせて相乗効果を発揮してしまっているとのことであった。ここでも原因分析の際に一夫多妻制のことが持ち上がり、多くの妻を持つ夫が家計を握っているがために各家族(妻単位)に石鹸や蚊帳などが行き渡らず、また、病気の際にも夫が付き添うか、交通費を出すかしなければ病院にも行けず、もしも夫が遠方に出稼ぎに言っている場合、その帰りを待つこともあると言う。

実際、PLA実施以前にも、村に嘔吐が続く赤ちゃんがおり、母親から「夫にこの子を病院に連れて行くように言ってちょうだい。」と懇願されたことがある。当時は何のことがよくわからず、「どうして自分で頼まないのかな。」と思いつつも、赤ちゃんが心配なので言うだけは言ってみた。すると、旦那さんは「じゃ、今日はもう日も暮れるから、翌朝一番に設備の整っている病院へ連れて行くか。」とすぐさま承諾してくれた。その後、病状回復した赤ちゃんの母親から予想以上に感謝された、という経験がある。

上記事例に見られるように、この村ではPLA実施時のような会議等での女性の発言権は比較的あると言えるが、家庭内では必ずしもそうでないということがわかる。ここでも村人の問題分析力に感心すると同時に、問題の奥深さ、問題解決の複雑さに気づかされた。

(3) ソーシャルセーフティネットの欠如

最後に、ソーシャルセーフティネットの欠如の問題であるが、(1)(2)の問題とも相互に関連し、男女ともに衣食住の不足を問題であると捉えていた。しかし、この問題に関しては、議論が展開されるに従い、だんだんと「ショッピングリスト」化し、原因結果分析どころではなくなってきたため、途中で打ち切った。

以上、3つの問題が挙がり、村人たちの手で原因結果分析もした。しかしながら、「では、これからどのような活動をするか」と言ったときに、やはり資金源がネックとなり、結局費用も手間もかからない石鹸作りから始めることとなった。今思えば、マイクロクレジット制度の紹介等もして、もっと村人に選択肢を持ってもらうべきだったと反省しているが、当時は始めての会議をどう収拾しようか考えるのに精一杯であった。このように、数々の自己課題が明らかになった会議ではあったが、会議終了時には満足気でさえあった村の女性たちを見るにつけ、(その後の活動につながるか否かを問わず)PLAを実施し、村の男女が一同に介した場で、女性たちが発言の機会が持てたこと自体とても価値のあることに思えた。今後は、これを自己満足に終わらせないように、いかに活動を展開していくか。試行錯誤は果てしなく続くのであった。

2005年6月 6日 (月)

女子教育を阻むもの(2):女子誘拐への対策(利根川佳子)

(前回のコラム「女子教育を阻むもの(1):早婚、女子誘拐」)

女子誘拐がなぜ行われているかについては、前回のコラムで書いた。今回は、女子誘拐と教育について更に言及したい。

女子誘拐は、エチオピアの多くの女性の仕事である水汲みの行き帰りに行われることが多い。長いと6時間かけて水汲みに行く地域もあるという。同様に、エチオピアの多くの学校は、家から離れているため、毎日数時間かけて学校へいくことも珍しくない。学校の行き帰りの間で、誘拐されることが良くあるのだ。また、学校で男女が一緒に勉強することにより、男女の交流が増えるのも、男子が女子に目をつけやすくなるため女子誘拐の原因と言われる場合もある。そのため、親は女の子を学校に行かせるのを嫌がる。それも、女子教育を阻んでいる。

その一方で、学校で男女が交流することで、女の子も合意の下、女子の親に対して結婚を納得させるための「合意女子誘拐」もおこっているらしい。この「誘拐」は恋愛に基づくので健全だというエチオピア人の意見も聞いたが、もし女の子が若く、教育の機会を失っているとしたら、良い方向だとは思えない。どちらにしても、この「合意女子誘拐」は、Dowryの金額が減ってしまうという点や自分の知らないところで娘が結婚相手を決めるという点から、親が娘を学校に行かせるのを拒む原因になるだろう。

女子教育を阻む女子誘拐に対する学校の対策を紹介する。アワサ(Awasa)郡にあるこの学校は、女子教育に比較的成功しており、ユニセフのターゲット校ではない。この学校は珍しく校長先生が女性で、個人的にも彼女が女子教育を強く推進している。その校長先生が女子誘拐に対してとった行動は、その地域のリーダーとその地域の宗教リーダーに対して、女子誘拐がもたらす影響について語り、働きかけ、コミュニティを巻き込んで、女子誘拐を止める努力をしている。伝統的に女子誘拐は周知の事実として行われており、コミュニティ全体がそれをよしとしていた。コミュニティリーダーを中心にその地域全体で考え方が変われば、女子誘拐もなくなるかもしれない。実際にその学校ではコミュニティリーダーを巻き込んで、誘拐した男性側の家に交渉に行き、誘拐された女の子を取り戻している。その後、誘拐から救われた女の子が高校にまで行ったと校長先生は誇らしく私に語ってくれた。また、その校長先生は、学校の生徒、コミュニティの前で誘拐から救われた女子に誘拐の経験談を話させることで、女子誘拐に対する認識を変えていったのである。「去年は誘拐された生徒はゼロだったけど、今年は1人誘拐されたのよ」と厳しい現実と戦う女校長先生の姿には圧倒された。確実に変化は起こっている。

この学校が地方都市に近く、コミュニティのマインドも比較的柔軟であることも成功の要因かもしれない。だが、コミュニティによる理解は大変重要だ。この学校が成功しているのは、コミュニティの理解を求めるに当たり、外部の人間ではなく、校長先生を中心にそのコミュニティに深く関わる人が行動を起こしたからだろう。

また、このような校長先生こそ、勉強する女子にとってのモデルとなることだろう。
エチオピア全体の小学校の先生の内、31%が女性である。私が訪問した村では、多くの学校で女性の教師は1人であった。女性の先生が増えることも、女子教育促進の大きな要因であろう。

女の子への教育の阻害要因は、経済的な点もあるが、それよりも社会文化的な点が大きく影響している。つまり、人々の前提となる考え方の問題となるので、道のりは長いが啓蒙活動を通じて、自分たちの前提となる考え方に疑問をもってもらうことからはじめることが、結果的には一番重要なものとなるのだと思った。

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