2015年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005年9月

2005年9月26日 (月)

ケニア・タンザニアでのボランティア-その2 ダルエスサラーム編(早川元貴) 

(前回のコラム「ケニア・タンザニアでのボランティア-その1 経緯 編」)

「生野菜は食べちゃだめだよ」――これは行きの飛行機の中で出会った、タンザニア生活20年というアメリカ人女性からの親切なアドバイスです。そう言われて、かじりかけた機内食の野菜サンドイッチからあわてて口を離す私に、衛生状況が良くないから彼女でもレストランや機内食の生野菜は口にしないのだと説明してくれました。ちなみに、彼女は機内食のチキンにも苦い経験があるのだそうです。

ケニアのナイロビからタンザニアのダルエスサラーム行きの飛行機で偶然隣席したこのアメリカ人女性はダルエスサラームでストリート・チルドレンの学校を運営しているのだそうです。そんな訳で、彼女からはいろいろ生活面でのアドバイスをいただきました。彼女の運営する学校は、タンザニア政府や各国大使館からも支援を受けているということで、タンザニアにおける資源動員活動などについても良い話しを聞かせてもらいました。ちなみに、彼女のアドバイスのおかげで1ヶ月のボランティア中は決して生野菜を口にすることはありませんでした。

しかしながら、このボランティア中に食べ物に困ったということは全くありませんでした。ダルエスサラームでは美味しい現地料理を堪能させていただきました。香辛料、ココナツミルクで味付けしたご飯が格別に美味しく、また、海が近いこともあってか、魚料理は最高でした。さらに、インド人移民が多いということでいろいろなカレーを満喫することもできました。

ボランティアの受け入れ先であるEAC本部はタンザニアのアルーシャにあるのですが、私の所属部署である保健部門が、首都ダルエスサラームで1週間ほどGIS(地理情報システム)のトレーニングを行っていることで私も上司に同行してダルエスサラームに滞在することになりました。しかし、トレーニングには少し顔出す程度で、ほとんどは私の担当である資源動員関連の活動をしておりました。

実際には、ダルエスサラームにあるドナー国の大使館に連絡を取り、保健分野の資金協力を要請するというものです。上司のアドバイスで、特にEACの企画している保健プロジェクトの中でも、エイズ治療の評価、GISを中心とした保健情報処理システム、アフリカ・トリパノソーマ症(Trypanosomiasis)対策の三つのプロジェクトを集中的に売り込むということになりました。

個人的にはアフリカ・トリパノソーマ症対策のプロジェクトに特に興味を持ちました。アフリカ・トリパノソーマ症は眠り病とも呼ばれるもので、サブサハラ・アフリカを中心に生息するツエツエバエという吸血蝿によって伝播される脳炎です。悲しいことに、現在ある治療薬のほとんどが、何十年も前に開発されたもので、かつ深刻な副作用を伴う可能性が高いという状況です。
数年前に、日本のテレビでもアフリカ・トリパノソーマ症 について報道されていました。脳炎のために食事の際でもウトウトと居眠りしてしまうように意識を失ってしまう少女の姿にひどく胸を打たれたのを覚えています。

「はじめまして。EACの早川元貴です。保健プロジェクトの資金協力をお願いしたいのですが。」――これは、ボランティア期間中に呪文のように繰り返したフレーズです。ダルエスサラームだけでも20近くの大使館、援助機関にコンタクトを取りました。しかし、電話をしても、保健担当のスタッフにすんなりたどり着くことは例外で、何度も掛けなおしをすることが必要でした。電話で「保健プロジェクトの担当者をお願いします」と言ったため、大使館の保健室につなげられたことが幾度もありました。ようやく大使館の保健担当のスタッフにコンタクトすることができても、EACを現地NGOと勘違いされて面会を断られるということもありました。「何で、日本人がEACの保健プロジェクトの売り込みをしているの」というような質問をされることもありました。

担当者が不在ということで留守電にメッセージを残す場合でも、また折り返し電話をかけ、数日まっても、相手からまったく反応がないとこっちも半ば意地になって電話を何度もかけなければなりませんでした。最初は、少しおどおどしていた「呪文」も、2,3日ですんなり唱えれるようになったのではないかと自負しておりましたが。

ダルエスサラームでは、上司と共に現地のホテルに宿泊しました。一泊40ドルくらいの、現地基準からすると結構高級ホテルのはずだったのですが、ちょっとしたトラブルもありました。シャワーが出ないのです。蛇口を全開にしても生ぬるいお湯が文字通り水滴程度にでるだけなのです。まあ、浴びないよりはましか、ということで半ば諦めてしまいましたが。

ホテルの部屋には蚊が出るということで、毎晩ホテルのスタッフが殺虫剤をスプレーしにきます。マラリア予防のために携帯の蚊帳をジュネーブから持ってきたのですが、いまいち部屋のつくりが蚊帳に対応しないということで蚊にはかなり敏感になっていました。部屋には蚊のほかにヤモリが出没し、食堂ではゴキブリが駆け回るというホテルでしたが、先ほども言ったように、食事はとても美味しくいただくことができました。ホテルのスタッフもとてもフレンドリーでタンザニア人の温かみを知ったような気分させられ、総合的には非常に良いダルエスサラームの滞在でした。

バックナンバー

2005年9月19日 (月)

エイズ予防活動のその後(位田和美)

(前回のコラム「「できること」から・・・」)
いつしか保健啓発活動が私の活動の中核を占めるようになってきたことは前回のコラムでも記した。今回は、保健啓発活動のひとつとして、昨年から活動展開を試みているエイズ予防活動のその後をご報告したい。
先のコラムで書いた紙芝居のフランス語訳を知人の高校生や大学生の有志と一緒に細々と続ける一方、郡庁やNGOが主催する、小学校の先生や地域保健員を対象としたエイズ予防セミナーにて紙芝居をエイズ予防教材として紹介することとなった。

紙芝居。日本人には馴染みの深い情報伝達ツールだけれど、果たしてセネガル人に受け入れられるのか。ちゃんと最後まで聞いてもらえるのか。また、ジョイセフから寄贈された、この「終わらないさよなら」という題名の紙芝居は、アフリカのとある国に住む小さな女の子が大事な家族をひとり、またひとりと亡くしていく悲しい物語である。(注)物語の中にはHIV/エイズの知識だけでなく、HIV/エイズという病気が持ち得る社会問題(HIV/エイズに対する無知から来る差別)まで取り上げている。このような複雑で悲しいストーリーを、根から明るいセネガル人が好むのか。また、HIV/エイズ感染率が比較的低く、HIV/エイズ患者の存在が身近でないセネガルの村落部において、物語の内容が難しすぎないか。いくつかの不安材料を抱えつつも紹介してみると、以前から「複雑なエイズの知識をいかに子どもたちにわかりやすく伝えるか」、「多様な教材を使っていかにエイズに関する知識の深堀りを図るか」という問題意識を抱いていた小学校の先生のニーズとぴったり合っていることがわかった。また、電気設備の整っていないほとんどの学校では、セネガル人の好きな映画上映もままならず、持ち運びが簡単な点でも紙芝居の評価は高かった。

実際に、エイズ予防教育の要請を受け、紙芝居上演を行った村の小学校では、生徒たちはきれいな挿絵や紙芝居の舞台となった村と自分たちの村との文化的・社会的慣習の近似性がたくさん盛り込まれているストーリー展開に惹き込まれ、約1時間という長丁場ながら夢中で耳を傾けてくれた。

また、別の村の小学校では、毎年開催されている文化祭の出し物として、この紙芝居のストーリーを基にした劇をしようということになり、全学年入り乱れてのベストキャスティングで劇団を結成した。総じて、セネガル人は劇が大好きで、演じるのも非常に上手い。この劇団結成のニュースは、練習開始早々、近隣村にまで口コミで話題となっていった。そして、文化祭当日。練習開始当初は恥ずかしそうに演じていた子も堂々と演じ、また、最初から演技の上手かった子もアドリブに磨きをかけ、最高の出来となった。近隣村から大勢駆けつけた観衆も、全員が食い入るように鑑賞するほど盛況を期した。また、文化祭前夜に、医療機関とNGOの協力を得てエイズ予防啓発の映画上映を実施していたことも、少なからず観衆の劇への関心を高めていたのかもしれない。

正直な話、これらエイズ予防活動を展開している最中も、「都市部ではともかく、村落部でエイズ予防活動がどれほどの重要性を持つのか」「予防法や血液検査の重要性を伝えても、対策を講じる手段は極めて限られているのではないか」「活動内容が村人の理解・関心にマッチしているか」という疑問が解消される日はなかった。

しかし、ラジオでよく耳にする「エイズ」という病気について知りたい、という基本的知識欲求を村人皆が持っていることは事実であり、そのニーズに応えることは村落開発に携わる者として必要なのであろう、と思っている。また今回、紙芝居や映画、劇といった多様なツールを効果的に使い分け、繰り返し知識を伝えることの重要性も充分学ばせてもらった。特に、劇は演劇好き・演劇上手なセネガル人の気質に合っており、演技者が村人自身ということで観衆の関心も高まり、劇後にも話題性の高い、有効な情報伝達ツールであると認識することができた。どんな活動でもそうであるが、その地域の人々が生き生きとする最適な伝達ツールというものが存在する。それを最大限活かすべく策を凝らすのがファシリテータの役割なのであろう。口承文化が発達し、公用語のフランス語も国語による識字もまだ充分普及していない中、「上からの政策」とも言い得るエイズ紙芝居の読み手育成講座の実施をめぐり、医療機関との協議が頓挫している今日、改めてそう思う。
-------------------
(注)本紙芝居はエイズがもたらす「悲しさ」をテーマとしているのではなく、アフリカのとある国の現実を忠実に描きつつも、この現実を前に、地域コミュニティは「どうするのか」「どうしようか」という問題提起を主眼としている、ということを書き添えておきたい。

2005年9月11日 (日)

「米国政府とNGOの対北朝鮮人道援助」を研究し始める訳(杉原ひろみ)

9月から2歳4ヶ月になる娘が幼稚園に通い出し、アメリカ社会の荒波に飛び込んだのを契機に、私は再び研究活動を本格化させることを固く決意した。もっともこの4月から日本の大学院博士課程に籍だけは置いていたが。

なぜ私は「米国政府とNGOの対北朝鮮人道援助」を研究しようと思っているのか。第一に、私がこれまで暮らしてきたジンバブエとワシントンDCで感じてきた「政府とNGOのパートナーシップ」について、論理的に理解したいからである。ジンバブエでは、NGOが型にはまらない組織形態を持ち、柔軟性ある活動を行っていた。その反面、NGOの特徴とも言うべき多様性を十分に生かしきらずに政府開発援助を実施するケースが多々見られた。

「援助は現場で起きている」のが本来あるべき姿であるが、実際にはまだ、先進国や国際機関本部のロジックに沿った援助が行われている。私がジンバブエの現場で働いていた時、先進国本部の人の動きや政策決定に至る過程がわからず、なぜこのような政策が存在するのか、また、逆に本部とどのような関わりを持ったら、現場の声を反映できるのか、疑問に感じたものである。

しかし、ここワシントンDCに居を移して初めて、米国における人の動きや、政策形成・決定方法、お金の動きが見えてきた。中でも政策形成段階で、政府やNGO、アカデミック、シンクタンク、教会などが、組織の枠を超えて個人レベルで、激しい駆け引きをしているのである。政府から資金援助を受けず独立して活動しているNGOも、水面下で政府をはじめ、さまざまなアクターと関わりを持ち、パートナーシップを築いている。そうした事実を積み上げることで、ここワシントンDCでは、一体どのようなメカニズムで、どのように組織や人が動き、政策が決定され、開発途上国の現場が動いているのかを明らかにしたい。

第二に、大学時代に専攻した朝鮮半島地域研究と、これまでやってきた開発援助を融合させ、一つの論文を仕上げることは私の長年の夢であり、それを実現したいと思ったからだ。たしかに日本国内ではミクロレベルでの韓国・北朝鮮研究は層が厚い。また、中国研究の専門家が北朝鮮研究を始める場合もあり、中国における北朝鮮研究を伺い知ることもできる。現に、大学時代に机を並べた仲間たちが、現在に至るまで、コツコツと研究を続けており、私のように巡り巡って朝鮮半島研究に戻ってきた者と違って、研究の奥行きも迫力も違う。

しかし米国の対北朝鮮援助を開発援助の分析手法を使って研究する日本人はほとんどいない。北朝鮮の人道・開発援助を研究する場合、実は米国の動きを追うことが極めて重要である。一見、固く門を閉ざしているように見える北朝鮮だが、1990年代以降、国際情勢の変化や天災等により、徐々に北朝鮮と、NGOや国連機関、先進国等の双方から働きかけがなされている。世界の開発援助の潮流に合わせて、どのように北朝鮮への人道支援の方法が変わっているのか。その変化から21世紀型の国際協力のあり方が見えてくるのではないかと考えている。

皮肉なことに、私がかつて仕事をしたジンバブエも独裁政権が25年続いている。米国の対ジンバブエ人道援助と北朝鮮援助は類似点が多いのではないか。今後、研究を進める過程で、ジンバブエでの経験を北朝鮮にも応用できたらと思っている。

以上が研究を始める理由である。次回は先進国政府や国際機関の対北朝鮮人道支援の歴史を振り返ってみる。

2005年9月 5日 (月)

ケニア・タンザニアでのボランティア-その1 経緯 編 (早川元貴)

私の勤務するWHOの雇用形態はさまざまですが、11ヶ月短期契約職員というのが私の身分であります。要は、11ヶ月ごとにWHOとの契約を更新しなければいけないというものですが、新しい契約を交わし仕事を再開する前に1ヶ月間の無給休暇(コントラクト・ブレイク)をとらなければいけないという規則があります。短期契約職員の多くは、この無給休暇を利用して出身国に一時帰国するというのが通例であります。一時帰国を奨励しているためか、実際にWHOからも旅費が支給されます。

昨年7月からWHOに勤務し始めた私にも、今年の6月にコントラクト・ブレイクがありました。以前から、日本に一時帰国するという気は全く、1ヶ月の休暇を利用して私がしたかったことは途上国のフィ-ルドに行ってボランティアをすることでした。そのために、少し貯金などもしておりました(あまり貯まりませんでしたが)。

なぜ、途上国の現場に行きたいのか。しかも自腹を切ってまでボランティアをする理由とは何か。こう問われると未だに明快な答えが見つかっていないことを白状しなければいけませんが、一ついえることは、途上国の現場には自分で努力しないと中々いけないということであります。

職種やレベルにもよりますが、私のようにジュニア・レベルで資源動員などという仕事をしているとなかなか途上国に行ってプロジェクトの現場を見るという機会がありません。これは、別にWHOに限った事ではなく、以前勤めていたワシントンDCのNGOでも同様でした。すでに途上国経験のあるテキーと呼ばれる(?!)技術系専門職の人は、途上国の現場に行く機会が多くあるのですが、本部の組織管理を担当するジェネラリストにはなかなか現場に行く機会は回ってきません。少なくとも、それが私の印象であります。

泥臭い現場に足を運ぶことなく、途上国の問題を知った気になることはいくらでも可能であることも事実だと思います。その一方で、自分の目で見て体験したことのないことを語ることに、個人的な「罪悪感」のようなものを感じていたということも、今回、途上国のフィ-ルドに行ってボランティアをするを決めた理由の一つであったと思います。

将来のキャリアにも良いのでは、とふと思ったことも正直なところです。途上国の経験を積むには途上国の経験が求められるという開発業界において「無い経験は語れない」と開き直って、或いは諦めてしまうことも可能ですが、自分で切っ掛けを作ってでも途上国で自分の力を試し、それを将来につなげたいと少し野心的に考えていたこともまた事実です。とは言っても、「まあ、多寡が一ヶ月、生活が合わなくてもすぐ帰ってこれる」と結構気楽に考えてたりもしていました。

当初、ボランティア先は、アフリカにあるWHOのフィールド・オフィスなどを考えていましたが、WHOの職員規定でコントラクト・ブレイク中はWHOで働くことは禁止されているということで、他の受け入れ先を探さなければなりませんでした。最終的に受け入れていただいたのは、タンザニアのアルーシャに本部を置く東アフリカ共同体(EAC)という地域間機構です。現在、加盟国はケニア、タンザニア、ウガンダの三国、職員数200人ほどの小さな国際機関です。私は、そこの保健部門でボランティアをすることに決まりました。

採用のプロセスは簡単で、WHOの同僚の同僚に紹介されて、履歴書を送ったらすんなりOKの返事が来ました。電話面接もありませんでした。とは言っても、その同僚には仕事の忙しい中、わざわざ推薦文を書いていただくなど、非常にお世話になりました。全額自費でのボランティアということもありましたが、即採用となった一番の要因はWHOの同僚の紹介であったと思います。恥ずかしながら、その同僚に紹介されるまで、私はEACの存在すら知りませんでした。改めて、人脈、ネットワーク(コネではありません)の重要さを実感させられた思いです。
筆者プロフィール

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »