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2005年10月

2005年10月31日 (月)

国際社会の対北朝鮮人道・開発支援開始にいたる歴史的背景(杉原ひろみ)

(前回のコラム「開発学から見た北朝鮮人道・開発支援研究へのこだわり」)

“Open, shut them. Open, shut them. Give a little clap.”

北朝鮮と国際社会の対北朝鮮人道・開発支援の歴史を振り返ると、娘が地元のプレイグループでよく歌う童謡をつい口ずさんでしまう。1995年の大水害によって、北朝鮮は食糧支援を受けるため、国際社会に門戸を開いたかのように見えた、しかし、10年経った今年、北朝鮮は、穀物生産量の増大などを理由に、人道的支援事業を行うすべての国際機関(国際NGOも含む)に対して、今年中に撤退する旨、伝えている。この10年、北朝鮮とそれを取り巻く国際社会の間でどのような変化があったのか、開発援助の側面から簡単に振り返ってみる。

国際情勢の変化とそれに伴う北朝鮮経済の困窮化

ヨーロッパでは1989年、ベルリンの壁が崩れて東西冷戦が終結し、続く1991年にソ連が崩壊するなど、共産圏が市場主義に移行することが国際課題になった。また、中国は鄧小平の下で「改革・開放」路線が進み市場経済を取り込んでいった。その一方で、依然として北朝鮮は社会主義国家を貫き、自主的民族経済を掲げている。しかし、実際には北朝鮮は建国当初から援助漬けの状態にある「“被”援助大国」である。旧東欧各国からの援助もあったが、中ソ、特にソ連(ロシア)からの支援を多く受取り、両国からの援助が滞れば、たちまち経済が成り立たなくなるというもろさを抱えている(今村 2005)。

例えば、北朝鮮は自国の石油資源が全くなく、1980年代までソ連と中国の援助で必要な石油を得ていた。しかし、1990年代にソ連(ロシア)の経済システムが崩壊すると、対北朝鮮支援の方針や位置づけを変えてきた。そして北朝鮮が受け取るロシアからの食糧と石油の援助は激減し、それに大きく依存してきた北朝鮮産業の崩壊が始まったのである(ナチオス 2002)。中国の場合、1950年代から80年代にかけ、第三世界の支持を得るために世界各国で援助を行い、その中で北朝鮮に対して原油や石炭、食糧の援助を行っていた。しかし90年代に入ると、中国の対外援助に対する考え方が変わって援助が縮小した。さらに、92年に韓国と国交が樹立されたことに北朝鮮が抗議したため、新規の援助が一時的に中断された。

このように北朝鮮は、建国当初からソ連や中国からの援助に慢性的に依存し、国家建設を行ってきたため、1990年代以降、国際情勢の変化に伴い、両国からの援助が激減し、北朝鮮経済はかなり困窮するようになったのである。

北朝鮮の国際援助アピールと国際社会の対応

1995年8月、北朝鮮は大洪水に見舞われ、9月に西側諸国を含む国際社会に対して国際援助アピールをし、主に国連やEU、赤十字、NGOなどを通じて食糧支援を受けるようになった。具体的には、世界食糧計画(WFP)が1995年10月までに平壌事務所を開設、続いて国連児童基金(UNICEF)も平壌に事務所を開設した。他方、米国NGOの動きとして、95年秋に「北朝鮮洪水救援」NGO(North Korea Flood Relief)が、北朝鮮の洪水被害者の存在を世界に広く知らしめ、募金集めのため、インターネットによるキャンペーンを実施したのが始まりで、翌96年2月には、3つの米国NGOが北朝鮮を訪問している。このようにして、国際社会による北朝鮮への人道・開発支援が始まったのである(Flake 2003)。

次回コラムでは、米国NGOが実際に、どのように北朝鮮に対して人道支援を行うようになったのかご紹介する。

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参考文献
今村弘子、2005、「北朝鮮『虚構の経済』」、集英社新書、28-50頁。
A.S.ナチオス、2002、「北朝鮮飢餓の真実」(古森義久監訳)、扶桑社、43-52頁。 
L. Gordon Flake. 2003. “The Experience of U.S. NGOs in North Korea.” L. Gordon Flake and Scott Snyder (eds.). Paved with Good Intentions – The NGO Experience in North Korea. London: Praeger.  

2005年10月24日 (月)

ケニア・タンザニアでのボランティア-その3 ナイロビ編(早川元貴)

(前回のコラム「ケニア・タンザニアでのボランティア-その2 ダルエスサラーム編」)

ボランティア中に一週間ほどケニアのナイロビに滞在する機会がありました。EAC主催のE-ガヴァナンスの会議がナイロビで開催されていて、私の上司が保健情報処理システムに関して発表をするということで、私も同行することになりました。また、上司はナイロビ出身ということで、彼の実家を訪問する、ということもナイロビ出張の理由の一つでした。EACの保健プロジェクトへの資金調達という点からは、ナイロビに駐在する各国大使館を訪問するという狙いがありました。

ナイロビに到着して最初に目についたことは、やはりナイロビ市に見られる高い経済発展のレベルです。ダルエスサラームと比べ、はるかに近代化しているという印象を受けました。市内のインフラを見ても、想像していた以上にナイロビは発展しているなあと感じました。その中でも、一番の驚きは、市内にあったショッピング・モールです。その規模、品揃えは、アメリカの片田舎に見られる中規模ショッピング・モールに匹敵するものがあったのではないでしょうか。便利さ、という点だけに目を向ければ、ナイロビは他のアフリカの都市よりもはるかに進んでいる言えるのではないでしょうか。その一方で、貧困層の集中するスラム街に足を運ぶ貴重な機会がありました。

7月のナイロビは丁度冬の時期に当たるそうですが、勉強不足の私は現地に到着するまでそのことを知らず、「ケニア=アフリカ=暑い」という公式を勝手に作っておりました。日中はポカポカ陽気で暖かいのですが、夜になると結構冷え込みます。最初は、大した寒さではないと意気込んでおりましたが、ナイロビ到着後2、3日で諦めて長袖のトレーナーを購入しました。アフリカで長袖のトレーナーを買うことになるとは想像していませんでしたが、この長袖トレーナーは後で滞在した冬のアルーシャでも大重宝でした。

ナイロビには1週間ほど滞在しましたが、会議への出席、保健省スタッフとの会合、駐在大使館への訪問の時間の合間を縫って、ナイロビ郊外にある上司の実家を訪問してきました。実家訪問は今回のボランティアで受け持った仕事とは直接関係は無かったのですが、渡航する前から、上司は私を彼の実家に連れて行きたいというようなことを言っていました。何でも実家のある村は電気も無いところだが、非常に景色の綺麗なところだということでした。特に、自慢の牛の乳を搾って飲ませたいとのことでした(?!)...

ナイロビから車で5時間ほどの上司の実家のある村は、近代的なイメージのナイロビとは一転して、本当に緑以外は何にも無いところでした。村の住民を貧困層と呼ぶべきかどうかは定かではありませんが、決して裕福な村でないことは村の建物、出会った人たちから充分察することが出来ました。それでも、我々が到着するやいなや、どこからとなく集まってきた上司の「家族」は、表情が明るく、礼儀正しいく、非常に親しみやすい人たちでした。さすがに電気もない上司の実家に泊まるのは大変だろう、という気遣いで、村では旅館に泊まりました。なんとなく刑務所を思い出させるその旅館は政府公認一つ星だそうです。高地にあり、朝夕とかなり冷え込みましたが、当然というか、温かいシャワーなどはありませんでした。

「貧困を見なきゃ、貧困削減は語れない」というのは、ボランティア中に上司が口癖のように言っていたことですが、上司が伝えようとしてたことは、貧困層地域に足を運び、そこで実際に生活してみること無しでは、貧困層の視点を貧困削減政策、プロジェクトに取り入れることは難しいということではないかと理解しています。貧しい村で数日生活しただけで、現地の人たちの視点が理解できた、というつもりは到底ありませんが、たとえ僅かでも現地の人たちの生活を体験することは、今後貧困問題を考えるときに役立つような気がします。当たり前のことかもしれませんが、本部勤務になれた私には非常に貴重な体験でした。

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2005年10月17日 (月)

開発学から見た北朝鮮人道・開発支援研究へのこだわり(杉原ひろみ)

(前回のコラム「『米国政府とNGOの対北朝鮮人道援助』を研究し始める訳」)

国際社会で北朝鮮の人道支援が取り上げられるようになったのはいつだろうか?

それを考えるとき、自身の過去10年間のこのテーマへのこだわりを思い返すとわかりやすい。1995年、大規模な水害を理由に、北朝鮮政府が国際社会に支援を求めてきたことが報道されたのは、私がロンドン大学大学院で勉強を始めた時のことだった。当時、修士論文のテーマを探していた私は、これをテーマに何か執筆できないかと、先生に相談に行ったことがある。もう10年も前の話だ。絶対的に資料がなさすぎると却下された記憶がある。当時、「工業開発」や「東アジアの奇跡」をテーマに韓国が事例として取り上げられることはあっても、北朝鮮の人道支援に着目する先生などいなかった。今でこそウォーウィック大学政治国際学部ヘーゼル・スミス教授や、USAIDナチオス長官をはじめ、多くの人が研究成果を発表しているが、1995年当時、私の調査不足もあり、英国内における研究者は、旧東ドイツの元外交官で北朝鮮赴任歴がある大学の先生ぐらいしか探し出せなかった。

翌1996年、インターン先を探してウィーンのUNIDO本部に出向き、北朝鮮の図們江地域開発の韓国人担当者と話をしたが、「実はこのプロジェクトは上手くいっていない。君にインターンとして来てもらってもすることがないよ。」と言われた。

1997年初頭、日本で国際金融機関を志す者の研修プログラムに参加し、現地研修でマニラのアジア開発銀行に行った際も「北朝鮮の人道・開発支援を語るのはまだまだ先の話だ。一つの国に固執せず、他国でのフィールド経験を積んでから北朝鮮問題を考えても遅くはない。」と言われ、以降、私は北朝鮮の人道・開発支援について追うのを止めていた。

それでも時々、北朝鮮の動向を伺い知る断片的な情報は私の元に入ってきていた。1997年から2000年までジンバブエに勤務し、全く地域を異にしていたが、98年頃だったか、北朝鮮は財政難でジンバブエの北朝鮮大使館を閉鎖した。その直前、ハラレ郊外にあるムバレ・ムシカ・マーケットにマイクロバスにて集団で乗りつけ、日用品を山盛り買いあさる北朝鮮外交官を何度も目撃したと、複数の人から聞いた。1980年代にジンバブエで仕事をしていた日本人は、「1980年代のジンバブエには沢山の北朝鮮の人が暮らしており、私が歩いていると、ジンバブエや北朝鮮の人から、おまえもNorth Koreanかと聞かれたものよ。」と言っていた。北朝鮮に医学留学していたと言うジンバブエ人にも会ったが、彼らは皆、80年代に北朝鮮に留学している。これはジンバブエに限ったことでない。タンザニア人の中にも北朝鮮留学をした人がいる。

しかし、2000年にワシントンDCという政治の街に暮らし始めてから、英国留学当時では考えられない情報が入ってくるようになった。米国NGO連合体でインターンをしていた2001年、たまたま防災訓練で一緒に階段を上り下りした彼が、実は米国NGO側を取りまとめ、米国政府との間に入って連携を取ろうとした陰のキープレイヤーの一人だった。その後、彼の紹介で、北朝鮮支援を行うNGO団体が定期的に集まる「北朝鮮ワーキング・グループ」に同席させてもらった。そうした場に居合わすことで、昔、英国で研究しようにも出来なかった北朝鮮人道・開発支援を研究したいと思うようになったのだ。

現在、私は育児中心の生活で、ワシントンDCの中心地に出かけて人に会うことなど出来ないが、育児の合間に読む本にも、彼の名前やグループの名前、そして「北朝鮮ワーキング・グループ」に参加していた当時のメンバーが、書籍や政府関連報告書に登場する。それ以外にもワシントンDCには、韓国料理を食べながら、韓国・北朝鮮をテーマにゲストがプレゼンテーションを行い、質疑応答を行うKorea Clubという場がある。そこで知り合い、気さくに話をした人も、実は専門書に登場していたりする。

こんな断片的な情報が私の元に集まっている。しかし、実際のところ、国際社会の対北朝鮮・人道・開発支援はいつ、誰が何をどれほど行ってきたのだろうか。1990年代以降、東西冷戦の終結にともない、国際社会も北朝鮮も大きく変わってきている。次回コラムでは、資料を基に時系列に追ってみる。

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2005年10月10日 (月)

津波被災地復興支援の現場から(5)(里見陽子)

(前回のコラム「津波被災地復興支援の現場から(4)」)
雨季が近づいている。朝晩は一瞬スリランカにいることを忘れてしまうくらい、空気がひんやりしている。2~3ヶ月前なら、朝から太陽がぎらぎら照って、仕事場へ向かう車の中でもじりじりと肌を日に焼いていたものだが、そんな朝の日差しがないと拍子抜けさえしてしまう。慣れたはずの冷たい水シャワーも、この時期はちょっとつらい。常夏の国でも季節はあるものだと、あらためて認識する。

東海岸の町カルムナイ周辺では、海岸から2~3キロを海岸線と平行に走るメインロードより内陸に、一面の水田が広がる。4~5月には育ち盛りの稲の生き生きした緑が美しかった田んぼも、今は収穫の時期も過ぎ、藁が積み上げられている。害虫対策だろうか、夕方になるとあちらこちらで田畑が焼かれているのを見かける。スリランカは二期作が多いと聞いているから、しばらくしたらまた田植えが始まるのだろう。

決して長い期間ではないが、7ヶ月にわたってこの地域で活動してきた中で、こうした自然環境の移り変わりを感じとることができ、新たな発見もあって興味深かった。また何より、災害後の復興という時期にあって、様々な人的・物的要素が大きく変化するのを見たり感じたりすることができ、それは私自身の日々の活動に刺激とやりがいを与えてくれた。

9ヶ月前に未曾有の津波被害を受けた町は今、復興への道を歩んでいる。と言っても、まだ多くの被災者がキャンプや仮設住宅での暮らしを余儀なくされているし、学校だって元通り正常に機能しているかと言えば、そんなことはない。癒されない傷を心に抱えた子どもたちも、まだたくさんいるだろう。それでも、津波で全てを失ったことを嘆いてばかりいるのではなく、そこをスタート地点にしてもう一度頑張ろうという、外部者である我々には計り知れないくらいの強さを持った人々がいて、それが彼らを前へ前へと動かしている。

ある時、一人の校長がこう言った。「ツナミは我々にとって本当に本当に悲惨な経験だったが、だからといって、いつまでもツナミのことを言い訳にしてたんじゃ駄目なんだ。被災したから仕事ができない、学校に来られない、遅刻したって仕方がない、とか何だって言い始めればいくらでも出てくるが、そういうことを習慣化させてはいけない。我々は、次にどんな災害が来ても大丈夫なよう、備えておかなきゃならないからね。」

そう、突然の大災害というこれだけの厳しい経験をしたのだから、この先どんなことがあろうと、彼らなら大丈夫なはず。大丈夫であってほしい。災害時、いや災害が起こらなくとも、援助が与えられるのを待つだけでなく、また上からの言いなりになるだけでなく、彼ら自身が、様々な外部支援の中から、自分たちの生活や教育やコミュニティの強化改善のために良いと思われるものを選択し、調整し、利用できるようになってほしいと思う。結局、外部者にできることは限られているのだから。そして、援助活動をそういう方向に持っていくことが、緊急援助から復興への橋渡しにつながるのではないか。

私はこれまで、紛争後の緊急援助から長期的復興・開発への移行に関心を持ち、テーマとして扱ってきた。もちろん津波災害は紛争とは違うが、今回津波被災地復興支援の現場での活動を通じて、私自身あらためてスタート地点に返ったような気がする。さあ、心新たに、次も頑張ろう。

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2005年10月 3日 (月)

Seeing is Believing(5)愛知万博にて思ったこと。We can’t live without them(工藤真友美)

(前回のコラム「Seeing is Believing(4)―アフリカ開発を考えたとき(後)」)

先日愛知万博で南アフリカ留学時代に出会った友人達に再会した。かれこれ4年ぶりくらいだろうか。4年しかたっていないといえば、そうなのだか、ずいぶんと長い間あってなかったように思える。彼女達は、南アフリカパビリオン内での土産店で働くために、大使館から呼ばれてきていた。ダチョウの卵の工芸品、ワイン、最近は健康ブームで日本でも多少名の知れる存在になったルイボスティー(Rooibos tea)、ビーズの伝統工芸品など。懐かしい品々が並ぶ。

このように、アフリカ大陸の物が日本人の目に触れることはいいことだと思う。普段アフリカを身近に感じる機会はないし、事実、日本人が身近に感じるのはアメリカなどの西洋諸国やアジア圏内の国々であるから。距離的な問題もあるだろう。

しかし、実は身近なところでアフリカ大陸の人々は日本人の生活に関係しているのだ。一番有名なところでガーナのココアだろう。私も大好きである、チョコレート。これの原料の大半はガーナ産である。

日本が南アフリカから輸入していて、私たちの生活にとても身近なものがある。南アフリカは世界有数の金やダイヤモンドの産地としても有名だが、もっと私たちの誰しもが毎日使っているものに関係があるのだ。
それを私が知ったのは、一番初めのホストマザーの会社を訪問したときであった。

彼女は、2人の子供と(プラス当時16歳の私)と夫の世話をしながら、仕事をこなすキャリアウーマンである。私がまず連れて行かれたのは、大きな工場。そして次は、森の中だった。ズールーの彼女の部下が英語がまだよくわかっていない私にわかりやすく言った。「Japan.これがね、あなたの国にいくんだよ。」切り倒された後であろう切り株を指差しながら。彼女の会社は木材関係を扱う会社だった。

南アフリカは日本への木材チップの上位輸入国である。木材チップは紙の原料となる。
私達が毎日使っている紙ははるか彼方アフリカの土地で育ったものが含まれているわけだ。南アフリカの労働者の力なくして、私たちが毎日講義でノートを取ったり書類を印刷できないのだ。

私は驚いたと同時に無知な自分を恥ずかしく思った。日本で当たり前に使っていた紙。一度もまさかアフリカから来ているものだったなんて気づかなかったし、想像もつかなかった。身近な紙と南アフリカがこんなところでつながっていたのだ。

このように、日本で暮らす私たちの生活には、他の国人々の労働によってできたものがたくさんある。言ってしまえば、原料輸入にたよる日本人の生活は彼らの労働なしには成り立たないのである。南アフリカでは管理職クラスは白人だが、たいてい賃金の安い重労働は黒人の仕事である。確実に、輸出品の多くの実質の作業は、黒人たちの重労働によってささえられる。豊かさの時代といわれる、今の日本。ものがあふれている今の日本。その一方で、それらの原料のために働く人々の生活はまだ必ずしも経済的に豊かとはいえないだろう。違和感を覚える、この「モノ」の流れ。

私たちはあまりにも、無知すぎる。ちょっと周りのものがどこからやってきたものかを考えてみて欲しい。意外な所でアフリカと日本はつながっていたりするものだ。私たちにとって、遠い場所ではない。そこには、私たちとは異なる、しかし、とても豊かな文化を持つ人々が暮らしているのだ。そのことをちょっとだけ考えてみてほしい、、、because we can’t live without them!

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