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2006年2月

2006年2月27日 (月)

子育てと開発援助の接点(杉原ひろみ)

配偶者の仕事の関係でワシントンDCに住まいを移して5年が過ぎた。現在、自宅をベースに開発援助研究を行いながら、3歳前の娘の育児に追われている。情報公開とインターネットの普及で、米国の政府・議会文書等もすべて電子化され、インターネットを通じて簡単にアクセスできる。そのため、以前のように専門図書館に足を運び、高いお金を払って時間をかけてコピーをしなくとも、必要情報を拾い集め、プリンターで印刷し、すぐに読める環境にあるのはありがたい。しかし、そうして集めた情報を分析するのは結局、自身の頭なので、ネットの普及がどれだけ研究論文執筆速度を速めているか疑問である。

それはさておき、今回は子育てと開発援助との接点について書くことにする。一見すると、子育てと開発援助研究は接点がないように思われる。ついこの間まで、私は子育てと開発援助研究との間に接点を見出せず、自分だけ開発援助の世界から切り離されたと焦燥感にかられていた。そして育児をすることで、自分がこれまで築いてきたキャリアが中断すると後ろ向きに考えていた。

かつての私のように友達も親族も誰一人いない外国で出産・子育てを行う者は、開発援助用語で言う「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が欠如した社会的弱者」なのではないか。出産当時、私はどのコミュニティにもグループにも属していなかったため、人と人との「信頼関係」も構築されず、ネットワークもない、非常に孤立した存在であった。子育ては初めての経験なのに、信頼を置く仲間や親族が身近にいないから、助言をもらうことも、いざと言う時に手伝ってもらえる人も回りにいない。さらに、外国人居住率の高い高層マンションに暮らしていたため、特定のコミュニティに属すわけでも、グループに入るわけでもなかったので、育児に関する情報も全く入ってこなかったのだ。これを社会的弱者と言うのだ。当時は泣くだけでしか意思表示が出来ないわが子を目の前に、おろおろしながら必死に育児をし、自分が置かれているそうした状況も客観的に把握する余裕などなかった。

が、ある日、開発途上国の社会学の本を読んで、以前から馴染みがあったはずの「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」という用語の真意がすっと体に入ってきたのである。「私はソーシャル・キャピタルが欠如しているのではないか。」と。それが子育てと開発援助研究における、私が見つけた最初の接点である。これまで開発途上国を政治経済学や社会学の側面から研究し、また実務で関わってきたが、それを今の自分に重ね合わせると、面白いほどうまく当てはまるのである。

以前のコラムにも書いたが、私は現在、ワシントンDC郊外を活動拠点に、主に小さい子供を持つインターナショナルな女性グループの理事の一人として、ボランティア活動に加わっている。活動内容は多岐に渡るが、事実上、ワシントンDC郊外に暮らす外国人の育児を中心としたネットワークと互助組織だと言える。それだけを見ると、開発援助とは直接的な関係はないが、運営者側に立つことで、ボランティア団体の運営や、組織のガバナンス、ルール作り、ボランティアをすることのインセンティブ作りなど、実践を通じて学んでいる。会員出身国が40カ国にもまたがる中で、どうやってリーダーシップを発揮しつつ、他の会員と協調して一つのことをやり遂げるか。高度なコミュニケーション能力が問われると同時に、NGO運営のあり方について日々考えさせられるのである。

また、このグループを通じて知り合った仲間から受ける刺激も多い。ドイツ出身の仲間と、子供が作る工作について話題になったことがある。彼女は毎週、上記ボランティア組織の会員の子供たち(2~6歳児)を20名近く集め、Art & Movementというクラスを運営している。彼女に「ドイツとアメリカの幼児が行う工作ではどこが一番違うと感じるか?」と聞いてみた。すると「アメリカは見かけや『結果』を大切にするけれど、ドイツは結果より作品を創り出す『プロセス』と創意工夫をもっと大切にする。」と返事が返ってきた。開発援助プログラムでよく言われる「結果重視か、プロセス重視か」の議論が、こんな子供の世界でも議論されるのか。

こうして、子供がもうすぐ3歳になろうとして、ようやく子育てと研究活動はパラレルに行われるものでなく、相互に刺激しあい、影響を与え合いながら行うものであると確信できるようになった。「石の上にも3年」とはよく言ったものだ。しかし、それも間接的に相互作用を及ぼすだけで、「対北朝鮮の人道・開発援助」をどう掘り下げたらいいかの決定打にはならない。まだまだ私の模索は続く。

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2006年2月20日 (月)

続・マラウイ徒然3  食糧危機の中、メイズの販売禁止令が出された(小林由季)

(前回のコラム「続・マラウイ徒然2  食糧危機ふたたび+洪水」)

前回書いたように、マラウイは食糧危機の真っ只中にある。そして、本当に必要としている人の手にメイズ(トウモロコシ)が行き渡るよう、いろいろな策が講じられている。

そんな中、1月4日付でマラウイ北部の主要都市であるムズズ市でメイズの販売禁止、という新聞記事が掲載された。ムズズ市議会は、同市内でのメイズ販売をADMARC(The Agricultural Development and Marketing Corporation:全国に拠点を持つ農協のような公社)だけに限定し、それ以外の民間業者のメイズ販売を一切禁止するというのである。第一報の記事では「メイズを高値で売る不届きな民間業者のメイズ売買を止めさせる」ことが目的と書かれている。

マラウイでは農産品販売が自由化されているが、政府はADMARCを通して、市場価格(房つきキロ40クワチャ前後)ではメイズを買えない人たちのために、補助金で低価格(房つきキロ17マラウイ・クワチャ)に抑えたメイズを販売している。

食糧不足の現在、メイズは一人当たり一度に25キロまで購入可能、と割当が決まっているが、入荷量に対して購入希望者が多すぎるため、入荷があった時に並んでいる人の数を見ながら、割当てを5キロ~15キロに減らし、なるべく多くの人に低価格の補助金メイズが行き渡るようにしている。それでもすぐに在庫が底をつき、何日も次の入荷がないことがある。

このメイズ販売禁止令について、以下、関連新聞記事から抜粋してみた。

ムズズ市議会の行政の長Chief Executiveによれば、
「市内のメイズ不足について、ステークホルダーと話し合った結果」
「民間のメイズ取引業者は、低価格の補助金メイズをADMARCから不当な手段で大量に購入し、それを(市場価格の高値で)転売したり、中部や南部に輸送して販売しているという告発があったため」
「一部の個人の利益ではなく、すべてのムズズ市民の利益のために」
今回の決定が下されたとのこと。

本件についてADMARC北部マネジャーは次のようにコメントして、今回の決定を歓迎するとしている。
「クリスマス直前の一週間で、ムズズ市内のADMARC販売所全体で500トン以上のメイズを売り切ってしまった。我々はまるでメイズを(底なしの)穴に注ぎ込んでいるようだ。」
「ムズズ市内のADMARCでは通常は一週間に100~150トンしか販売しない。誰かがADMARCからメイズを大量に買っているというコミュニティからの申し立てもあって、(民間取引業者が)転売しているという疑惑につながった。」

それに対して、民間のメイズ業者は次のように反発し、商売を続けるとしている。
ムズズ・マーケットでメイズを販売している露天商:
「俺たち全員がADMARCからメイズを仕入れているという証拠でもあるのか。疑いだけで全員の商売を禁じるなんて。」
「ADMARCから買っている人間だけを捕まえればすむことじゃないか。」
「我々はタンザニアやChitipa県からメイズを買いつけてるんだ。」
「私たちはメイズで生計を立てている貧しい人間なんだ。」
「市や政府はこの商売を止めろというけど、夫に先立たれて5人の子どもの面倒を見なきゃいけない私はどうすればいいの。」
北部露天商協会会長:
「メイズ販売禁止の決定が下された話し合いに自分たちの代表はよばれていない。一方的に下された決定に従うことはできない。」
「マイクロファイナンス機関のFincaやPrideから金を借りてこの商売をしている人間もいるんだ。ある日突然商売をやめろというのはフェアじゃない。」
「我々は全員逮捕されてもいいと思っている。」

話し合いに参加した「ステークホルダー」は、Traditional Authorities (伝統的権威・リーダー)、政治家、ムズズ市議会当局、中央政府のスタッフで、確かにメイズ販売業者がいない場での決定だったらしい。

農業・食糧安全保障省の大臣はこのメイズ販売禁止令に反対として、
「本件について省は相談consultationを受けていない。」
「この食糧の足りない時に、ADMARCだけで市全体のメイズを供給するのは無理がある。民間業者がメイズを市場に供給する機会を与えるべきだ。」
とコメントしている。

マラウイ消費者協会(Consumers Association of Malawi: CAMA)のディレクター代理も、本件はメイズの販売を統制し、需要を抑制することが目的なのだろうとしながらも、これは経済の自由化に逆行するもので、消費者がメイズにアクセスするのを妨げる側面があると強調している。

また、マラウイ商工会議所(Malawi Cofederation of Chambers of Commerce and Industry:MCCCI)の会頭は、本件についての声明の中で次のように述べている。
「現在のシナリオは、メイズを輸入したり、自ら生産している民間業者が、市場価格が上昇したのを見て、貯蔵していたメイズを放出しても十分な利益があがると判断したということだろう。」
「(それなのに)ADMARC以外でのメイズ販売を禁止するのは、短期的に見てもなんの解決にもならない。(このような禁止令は)メイズ生産を続けようという民間セクターの企業家精神をそぐことになる。」

1月7日以降、これを書いている1月21日まで、本件についての続報を目にしていない。次回はこのメイズ販売禁止令と、経済自由化、地方分権化の関連について考えてみたい。

関連新聞記事
The Nation紙
1月4日付Mzuzu City bans sale of maize, http://www.nationmalawi.com/articles.asp?articleID=14453
The Daily Times紙
1月4日付Mzuzu residents ban maize traders, maize traders banned in Mzuzu, websiteなし
1月6日付 Vendors defy maize ban, websiteなし
The Weekend Nation紙
1月7-8日付 Mussa against maize sale ban, websiteなし

2006年2月13日 (月)

国際機関が人員削減をしたとき(2)特殊な国際機関、アフリカ開発銀行(畑島宏之)

(前回のコラム「1、なぜ、昔のリストラ話をはじめるのか」)

「いつまで駐在の予定ですか?」
「アフリカの組織に就職するので、帰国の予定などないです。」

私がアフリカ開発銀行に就職することが決まり、西アフリカのコートジボアールへの引越し準備をしているときに、当時の勤務先の人と交わした会話だった。国際協力分野の仕事についてはある程度の経験がある人たちであったが、「アフリカの組織に就職する」ということに驚いたようだった。確かにそうだ。アフリカは、JICA専門家や青年海外協力隊員などが、2年や3年といった任期で「派遣」されていくところだ。アフリカ開発銀行は、アフリカで誕生し、アフリカを対象にした国際機関であり、UNEP(国連環境計画)のようにアフリカに本部がある国連機関と異なる。私が「アフリカに就職しに行く」というのは、ただ単にアフリカで仕事をするということではない、と認識し、腹をくくっていた。

まずは、アフリカ開発銀行について基本情報をあげておきたい。アフリカ開発銀行は、アジア開発銀行や米州開発銀行、欧州復興開発銀行と並ぶ「地域開発銀行」であり、地中海に面した北アフリカ諸国を含むアフリカ大陸全土を対象としている。

設立は1964年、地域開発銀行としては2番目に古い(一番は米州開発銀行)。その出自はきわめて特殊な国際金融機関だ。1950年代終盤に、当時次々独立していくアフリカの国々の開発資金をまかなうべく、アフリカ諸国が資金を出し合って設立された、まさに「アフリカ人のためのアフリカ人による」銀行だった。その後、国際金融市場から大きく資金調達ができない一方で、貧しいアフリカ諸国に対する「緩和された条件」(低金利)での融資需要があることなどを理由に、1973年に先進国(欧米・日本)とアフリカ開発銀行が共同で「アフリカ開発基金」を設立した。しかし、当初、銀行は先進国がアフリカ開発銀行の株主になることを拒んでいた。アフリカ開発銀行に欧米、日本、そしてほかのアフリカ地域外の国々(中国、韓国、インド、ブラジル、アルゼンチン、クウェートなど)が株主参加するようになったのは1983年からである。とはいえ、設立協定では本部をアフリカに置き、総裁をアフリカ人から選出するという規定は残った。1994年当時の銀行理事会における議決権は、アフリカ諸国64%、域外国36%で、アフリカ諸国の発言権が強かった。

ちなみに日本はアフリカ開発基金設立当初から資金提供を行い、現在アメリカやヨーロッパを上回るトップドナーである。また、アフリカ開発銀行の議決権も加盟国全体で5位、域外国ではアメリカに次いで2位である。

本部は西アフリカ、ギニア湾に面しているコートジボアール共和国の(事実上の)首都、アビジャンで、13階建てのビルを所有している。当時の職員数は1224人。うちプロフェッショナル(専門職)は615人、サポートスタッフ(補助職)は587人だった。世界銀行や国連のような巨大組織とは比較にもならず、ほかの地域開発銀行と比べてもこじんまりとした組織である。

その「アフリカ人が作った、アフリカのための銀行」が、1990年代初頭、危機的状況に陥っていたのだ。その原因について次回のコラムで説明したい。

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2006年2月 6日 (月)

北朝鮮の人道開発援助の特異性(2)(杉原ひろみ)

(前回のコラム「北朝鮮の人道開発援助の特異性(1)」)

前回のコラムでは、私が現在、行っている北朝鮮の人道・開発援助が極めて特殊で、それゆえ研究、分析を困難にしている4つの点のうち2点を挙げた。今回は、残りの2点について言及してみる。

第三に、これまでの他国の援助と比較して北朝鮮が決定的に異なるのは、これまでの緊急援助、食糧支援で問題となった事柄が、北朝鮮では一度に、しかも極端な形で現れていることだ (リード、2004)。リードは、比較の対象としてエチオピアやカンボジア、イラクでの緊急援助や食糧支援を例に挙げている。エチオピアで起きた1983-1985年の飢饉に国際社会は緊急援助を実施したが、後になって、援助が実は政治目的に利用されてしまっていたことが判明した。カンボジアでは、1979年にポル・ポト政権が崩壊し親ベトナム政権が樹立されたが、援助機関は、多数の国民への援助を実施するのに、カンボジア政府による厳格な監督を受けるという条件を甘受するか、あるいはクメール・ルージュの残党が侵入いるタイ国境付近の難民を支援するのかという、究極の選択をしなければいけない状況に追い込まれた。また、イラクでは、十年にもわたる国連の経済制裁で疲弊したイラクに対して食糧援助を行うことは、サダム・フセインの独裁政権を支援し、強化することになり、イラク国民の苦難を継続させることになっていたと非難された。こうした過去の経験と失敗が、北朝鮮で同時に起きているとリードはいっているのである。そうした北朝鮮の人道・開発援助をどのように分析するのか。答えはなかなか出てこない。

第四に、対北朝鮮援助は国際政治の重要問題と理解されている半面、そのような見方だけでは決して捉えきれないことである。具体的には、国際政治で主流の「安全保障化のパラダイム(Securitization Paradigm)」では北朝鮮の人道政策分析ができない(スミス、2000)。スミスは、英国ウォーウィック大学政治・国際学部で国際関係を専門とする教授だが、これまでWFPやUNICEF、NGOのスタッフとして何度も北朝鮮に滞在しているため、人道援助の実務レベルから国際政治分野までを網羅する論文を執筆している。国際政治は私の専門外なので、人道援助の実務家寄りの論文を読む分には彼女の議論についていけるが、彼女の国際政治面から書かれた論文を読むと頭がしびれてしまう。それを敢えて国際協力の側面から解釈すると、スミスは上記の主流パラダイムでは複雑な北朝鮮政治や急速な変化を把握しきれないと主張している。北朝鮮の現体制の継続か、終焉かを議論するのでなく、歴史的背景を重視し、状況に応じ、道理にかなった分析を行い、朝鮮半島における平和や安定、そして飢餓からの解放に向かって現実的に実証する必要があるとしている。

たしかに結論が二者択一となる議論は楽である。しかし、開発援助の現実はそんなに単純な議論で切り落とせるものではない。歴史・経済・社会・文化などさまざまな要因を総合して考え、そこに暮らす人々の開発を考えなければならず、唯一の答えなど存在しない。間口が広く奥が深いので、それが面白いところであり、また研究を進める上で、困難なところでもある。

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参考文献
●Michael Edwards. 1999. Future Positive. London: Earthscan.
●Edward P. Reed. 2004. “Unlikely Partners: Humanitarian Aid Agencies and North Korea”. Ahn Choong-yong, Nicholas Eberstadt, Lee Young-sun (eds.). A New international Engagement Framework for North Korea? – Contending Perspectives. Washington DC: The Korea Economic Institute of America.
●Hazel Smith. 2000. “Bad, Mad, Sad or Rational Actor? Why the ‘Securitization’ Paradigm makes for Poor Policy Analysis of North Korea”. International Affairs Vol.76 Issue 3.

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