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2006年3月

2006年3月20日 (月)

ナチオス元USAID長官と北朝鮮(杉原ひろみ)

(前回のコラム「子育てと開発援助の接点」)

開発援助の世界でアンドリュー・ナチオス(Andrew S. Natsios)といえば、2001年5月から2006年1月までUSAID長官として活躍していたことで有名である。引退後の現在、ジョージタウン大学外交学部教授(Professor in the Practice of Diplomacy at the Walsh School of Foreign Service, Georgetown University)に就任している。しかし、彼には別の顔があることをご存知だろうか。北朝鮮の人道・開発支援の世界では、彼は北朝鮮の飢饉や人道支援の専門家として知られている。2002年に出版された”The Great North Korean Famine”が日本語訳され、日本初の北朝鮮の食糧危機に関する書籍として出版された。

では、アンドリュー・ナチオスはなぜ北朝鮮の飢餓について本を書いたのか。USAID長官に抜擢される前、彼は1993年から98年まで大手NGOの米国ワールドビジョン副会長として勤め、貧困に対する米国政府の政策を変えようとしていた。政府とNGOといえば、一般に日本では対話と協調が進んできているが、アメリカでは、いや、少なくともワシントンDCに事務所を構えるNGOを見ていると、NGOから政府へ、その反対に政府からNGOへの異動が頻繁かつ日常として起こっている。彼もまた、その一人だったのである。さらに94年からは、米国NGO連合体「インターアクション」の執行委員会のメンバーとして「人道政策と実践委員会」(Humanitarian Policy and Practice Committee)で活動していた。

そして北朝鮮への人道援助に携わり、何度となく北朝鮮国内や中朝国境を訪れ、飢餓の実態を調査するとともに、飢餓の初期段階からアメリカで援助の必要性を訴えてきた。本書はそのような立場から食糧危機の実態や援助をめぐる論争を解説したものである。さらに1998年から99年までの間、米国平和研究所上級研究員として籍を置き、「人道支援、紛争解決、飢饉と内戦、海外援助、国連機関、NGO、北朝鮮」を専門に、1997年の北朝鮮の大飢饉を中心に研究活動に従事していた。

このように、北朝鮮の人道・開発援助研究の世界でも知られるナチオスだが、開発援助全般における論調はどうなのだろうか。英国ODI(Overseas Development Institute)が発行するジャーナル誌Development Policy Review, 2006, 24(2)に、2005年10月12日にODIと共催で、英国議会で講演したナチオスのスピーチが、非常に示唆に富むものであるとされ、掲載されている(Andrew S. Natsios, “Five Debates on International Development: The US Perspective”)。

そこでは、国際開発援助の政策立案者に対して5つの論点を提示しているが、そのうちの「戦略的再編成」と「変革をともなう開発(Transformational Development)」が注目に値する。東西冷戦時代は、二極世界とソ連との競合という枠組みの中で、外交、防衛、そして開発援助がなされていた。しかし今日、特に9.11以降、米国にとっての脅威は虚弱国家であるとし、その虚弱国家に対する支援を強調している。そして、途上国に対して経済機会を与え、民主国家を広めていくことこそが、米国の国家安全保障上、極めて重要だとしている。

具体的には、ドナー国と受益国双方とも、「政治」(Politics)がもっとも重要な要素であると述べている。先進国、途上国の区別なく悪い政策が変えられない理由は、資産や思考、社会的優位、名声、伝統的な物事の進め方などすべてに、根深く固定化した既得権益が絡んでいて、それを打ち壊す変革が非常に難しいからである。そこで、正しい政策を持ち、理にかなった議論を進めることで、そうしたマイナスの利害体制を変えていくことができると主張している。そのためには、開発のプロは、既存の政治システムの中で、守旧派を不利にし、改革推進派を支援するような政治的圧力をかけ続けることが大切である。

すなわち、単に開発は持続可能なだけでなく、変革をともなうものでなければならないとしている。ナチオスは、決して北朝鮮や、かつて私が暮らしたジンバブエを例に挙げたりしていないが、こうした国こそが虚弱国家であり、ドナー国も当事国も、変革をともないながら開発を進める必要があると、行間から伺える。彼はUSAID長官からアカデミアの世界に移ったが、こうした論調で今後もシビル・ソサエティを誘導し、米国政府に対して働きかけていくに違いない。米国の対北朝鮮人道・開発支援を研究していく上で、今後もナチオスの学術・実務双方の分野での活動を注意深く追って行く必要がある。

主な著作:
Andrew S. Natsios. 2002. The Great North Korean Famine. Washington, D.C.: United States Institute of Peace Press.
アンドリュー・S・ナチオス、2002、「北朝鮮飢餓の真実」小森義久監訳、坂田和則訳、扶桑社
●Andrew S. Natsios. 1997. U.S. Foreign Policy and the Four Horsemen of the Apocalypse. Washington D.C.: Center for Strategic and International Studies.
●Andrew S. Natsios. 1996. “NGOs and the UN System in Complex Humanitarian Emergencies: Conflict or Cooperation?”. Thomas G. Weiss and Leon Gordenker (eds.)NGOs, the UN, and Global Governance. Boulder: Lynne Rienner.

アンドリュー・ナチオスの経歴
米国平和研究所より: http://www.usip.org/specialists/bios/archives/natsios.html
USAIDより: http://www.usaid.gov/about_usaid/bios/bio_asn.pdf
ジョージタウン大学より: http://explore.georgetown.edu/news/?ID=11716

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2006年3月 6日 (月)

国際機関が人員削減をしたとき(3)不良債権問題(畑島宏之)

英国の大学院で開発学を学んだ後、東京で2年近くアルバイトとインターン生活で食いつないでいた極貧生活に終わりを告げたのは、アフリカ開発銀行から採用通知が届いた1994年の晩春だった。アフリカに住み、アフリカの組織で開発の現場に携わることを願っていた私は興奮していた。そのさなか、私の就職を聞いた、大学院での日本人クラスメートが一枚のFAXを送ってきた。「ご参考」と一言添え書きがあった英フィナンシャル・タイムズ紙の切り抜きだった。見出しは「問題銀行、改革に合意なし。アフリカ開発銀行年次総会閉幕」だった。

アフリカ開発銀行は94年、設立30周年の節目の年を迎えていた。しかし、お祝いムードをかき消すような問題が噴出していたのだ。そして、銀行の存続を疑問視する先進国と、それに激しく反発する一部のアフリカ諸国の対立など政治問題化していた。そこでの問題は多岐にわたるのだが、1)銀行の不良債権問題、2)組織運営の効率・効果の問題、の2点に収斂できる。今回のコラムでは、不良債権問題について触れてみたい。

不良債権問題

アフリカ開銀の不良債権問題は1993年に表面化して、どんどん深刻になっていった。アフリカ開銀の借り手であるアフリカ諸国の大半が、借入金の返済が滞るという「延滞」状態にあった。そのような延滞債権が融資残高合計に占める割合は、91年末4%から93年には約7%にまで達していた。16カ国が延滞状況ゆえに新規の融資承認・実行ができないという制裁下にあり、そのような「問題国」が銀行融資残高に占める割合は90年の5%から93年の23%にまで増えていた(Peprah, 1994)。その中でもザイール、カメルーン、コンゴなどの国が一年以上支払いが滞っていた。

借り手の問題:返済能力の低下

なぜ、このように多くの国が、アフリカ開銀からの借金の返済が滞るようになったのか。債務問題の基本は債務の「返済能力」と「意欲」の二点あり、90年代半ばのアフリカではどちらも重大な局面にあった。1980年代、石油危機以降のアフリカ諸国でのマクロ経済バランスの崩壊(インフレ、通貨下落)に対処すべく、ほとんどの国で構造調整プログラムが導入されていた。それに対して主に世界銀行、IMFが融資することで資金援助をおこなってきたが、アフリカ諸国の大半は経済低迷から抜け出せず、融資を返済できるに足る外貨獲得ができずにた。アフリカ開発銀行も85年から構造調整を目的とした融資を増やしてきたが、90年代中頃にはアフリカの債務は明らかに持続不可能な状態になっていた。債務返済能力が著しく欠けていたのだ。この状況は悪化する一方となり、やがて90年代末の重債務貧困国(Heavily Indebted Poor Countries: HIPCs)スキームや、貧困削減戦略ペーパー(Poverty Reduction Strategy Paper: PRSP)の導入などにつながっていく。(参考http://dakis.fasid.or.jp/report/information/Africa.html

借り手の問題:返済意欲の欠如

また、返済意欲の面からもアフリカ開発銀行は不利な状況に置かれていた。構造調整融資に大きく依存するようになったアフリカ諸国は、そのプログラムの中心に位置する世銀やIMFなどへの債務返済を優先し、アフリカ開発銀行への債務返済を後回しにする場合があった。また、「アフリカ人の銀行」という身内意識も作用し、銀行側も厳しい制裁に踏み切っていなかった。その結果、アフリカ開銀への返済はどんどん滞ることになってしまったのだ。

貸し手の問題

不良債権問題の常として、借り手の責任と同時に、貸し手の責任も問題となる。アフリカ開発銀行の責任として、ポリシーとして借り手の国の銀行融資の適格性を厳しく選別していなかったということが挙げられる。アフリカ諸国への貸し出しは、借り手側の経済危機と構造調整実施という要請に応えるものであったが、世界の資本市場で調達し、市場金利で貸し出す銀行業務として、多額の融資がザイールなどに対して80年代後半に行われていた。その融資の承認、実行に際して、当時のアフリカ開発銀行には、「アフリカ人が作った地域の銀行」だったので域内加盟国を融資適格性で区別することに対して消極的だったのだ。一方、世銀では、クレジットポリシーとして、IBRD適格国(銀行融資対象)とIDA適格国(有償資金援助=無利子融資)とを所得水準などで分けていた。

さらに、アフリカ開銀の80年代後半は大幅な拡大期にあった。1985年の累積融資承認額は約35億ドルであったが、90年には、3倍の95億ドルになり、95年には150億ドルにまで増えていた。その背景には85年に就任したンジャエ総裁(セネガル出身)が銀行の資本金を200%増大させるという提案に対して加盟国から承認を受け、その資本増加分に合う形で急速に融資を拡大したことにある。特に、構造調整融資といった「足の速い」(すぐに実行される)融資はその拡大に貢献した。しかし、90年代初頭には債務危機により拡大成長はその限界を見た。

不良債権は、アフリカ開銀の運営にどのような悪影響を与えただろうか。まず、延滞債権は銀行の収益性を下げ、資本準備を増やせない状況に陥った。また、貸し倒れ引当金を積み増す必要性があったが、それを一気に行うと銀行の自己資本比率を下げ、国際資本市場での高い信頼(AAAの格付け)を損ない、調達金利の上昇が銀行の収益に悪影響を及ぼすという危惧があった。また、資本の毀損懸念から、新規融資の抑制という状況にもなった。そこから脱却するためには資本金を積み増す必要があった。しかし、そのためには「株主」である加盟国、特にアフリカ開銀を支持する先進国株主の支援が必要であった。

参考文献:
Peprah, Ignatius, 1994, The African Developent Bank, C-C Consulting, Ltd. Ottawa,
African Development Bank, 1990 to 1996, Annual Reports.

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